近江物語

第二十章 千鳥
 郡司の館には、郡司の一族郎党約二十人の他、十数人の使用人がいる。大黒丸の母がそうだったように、小作農の妻娘が奉公しているのも少なくない。その中に年の頃は十四五歳、使用人仲間からは千鳥と呼ばれている娘がいた。決して際立った美貌という訳ではないが、明朗快活ではきはきしていて、気さくで面倒見が良く、しかも勤勉でよく働くので、館の人々には好感を持たれている。使用人達の噂話の断片を集めてみると、千鳥は幼い頃に両親を亡くして、天涯孤独の身の上となって館に奉公に来たというのである。だが、孤児という境遇から想像されるような暗さは、殆ど見出すことができない。雅仁がそんな事をふと口にすると、律子は、
「へえ、あの子そうだったの? 少しもそうは見えなかったわあ」
と驚いてみせる。
「私も初めは、全然そうだとは思わなかったんだ。普通、自分から『私は孤児です』と言わなくたって、どこか親のいる子とは違う雰囲気が出てくるんだけどね、私自身の経験から言って。私は二条の邸では、小近江の子ってことになってたんだけど、そうじゃないって事、うすうす感づいてたのがいたらしいんだ」
 雅仁が言うと、律子は頷きながら、
「貴方でさえ気付かなかったのか。でも私、そういう気持のしっかりした子、好きよ。ついでだけど、私、『わたくしは孤児でございます、皆様どうぞ憐れんで下さい』なんて風に、孤児であることを笠に着て同情を買って歩くようなのは、大っ嫌いよ」
 こう言い切ってのけるのも、律子の勝気なところである。
「貴女が実際、母さんがいないって事、おくびにも出さなかったものね」
 雅仁が何気なく言ったのが、律子の琴線に触れるところがあったのだが、律子は何事もなかったふりをしている。
「あの子、私と気が合いそうだわ」
 律子は明るく言った。
・ ・ ・
 雅仁達が近江高島に韜晦を始めてから三年が経った。雅仁は三二歳、長男雄仁は十六歳で、既に前年元服している。幼少の頃から農作業で鍛えられた若い肉体は屈強そのもので、顔も手も日に焼けて黒く、肩は広く胸は厚く、どこから見ても立派な農夫である。秋の刈入れの後、米俵を軽々と担いで倉へ運び込む雄仁を頼もし気に見守りながら、雅仁は律子に言った。
「あの子も立派になったものだ。十六だものな」
 律子は黙って頷く。
「……思い出すなあ。私が貴女との約束を果たした頃の事を。あの時、私達は十六だったんだ」
「そうね。……あの子、あの時の貴方と同じ歳なのね。
 いやだわ、私達、急に歳を取ったみたい」
 律子は笑い出した。
 丁度そこへ、柿の実を盛った籠を抱えた千鳥が通りかかった。千鳥は雅仁と律子に会釈して通り過ぎようとする。その時、何かに躓いた。
「あっ」
 千鳥は前のめりに転んだ。柿の実がそこら中に散らばる。雅仁はすかさず駈け寄り、柿の実を拾い集める。律子も負けじと駈け寄って、千鳥を助け起こす。
「大丈夫? 怪我はない?」
 律子が気遣って声をかけると、千鳥は、
「だ、大丈夫です。済みません」
 膝の土を払おうともせず、柿の実を拾って籠に入れる。
 倉から出てきた雄仁も、柿の実が散らばっているのを見て、すぐさま拾い集めようと這いずり回る。夢中で拾ううち、一つの実を掴み取ろうと伸ばした手が、別の人の手に覆さった。雄仁が顔を上げると、その手の主は千鳥である。思わず雄仁、手を引っ込めた。千鳥も、一旦手に収めた柿の実を残したまま手を素早く引っ込め、顔を伏せて後ずさる。雄仁はその柿の実をおずおずと拾い上げ、じっと握っている。やがて千鳥は、柿の実を盛った籠を抱えて、雄仁からは目を外らすようにしながら、そそくさと去っていく。
 この一部始終を、垣根の間から覗いていた者があった。十三歳の長女浩子である。年の割にませている浩子は、兄の仕草を見て、好奇心が頭をもたげてきた。
 夕飯時、一日の仕事具合や出来事などを何となく雑談している折、浩子は出し抜けに、
「太郎兄さん、好きな人、いるんでしょ」
 雄仁(この時代実名は滅多に呼ばず、家族内でも年の順に太郎、次郎、大子、中子、と呼んでいることが多い)は、いきなり突拍子もない事を言われて、強飯が喉につかえてむせ返り、口を押えて咳込む。やっとの事で飯を嚥み下し、
「な、何を言うんだよ、いきなり」
 努めて平静を装おうとしているのだが、その様子を見て浩子は一層興に乗る。
「あ、慌ててる。本当だな」
 雄仁は黙って飯をかき込む。浩子は、
「ね、誰なの?」
「これ、大子、止めなさい」
 見かねて雅仁が口を出す。浩子も、この場で兄を詰問して白状させようという気はなかったので、それ以上何も言わない。
 夜になって、雄仁が寝室へ入ってくると、厨子の上に置いておいた柿の実がない。
「ここに置いといた柿の実、誰か知らないか」
 すると十一歳の三男惟仁が、
「それ、兄さんのだったの? 先刻お腹が空いたから、食べちゃった」
 惟仁は悪気はなかったのだろうが、雄仁はやにわに惟仁に掴みかかり、凄まじい形相で睨み据え、怒気を剥き出しにした声で、
「他人の者を盗むとは何事だ!」
 惟仁は目を一杯に見開いて震え上がる。雄仁が手を放すと、惟仁は後も見ずに逃げ出し、律子に縋りついて訴える。
「わかったわかった、後でちゃんと言っておくから」
 そう言って惟仁を宥める律子だが、内心、雄仁の心情が推し測られて、苦笑を禁じ得なかった。
〈そういうものなのよね〉
 律子は雄仁のいる寝室へ来た。律子が何も言わぬ先に雄仁は、
「三郎の事でしょ? 長男なんだから、弟のする事に一々腹を立てるな、と言いに来たんでしょ。次郎が生まれてから、ずっと言われっ放しだから、もう聞き飽きたよ」
 律子は、言おうとした機先を制せられて言葉が出ない。ややあって、
「それもそうだけど。太郎、お前、この間からちょっと変だよ。柿の実くらいで三郎を怒ったりして」
 雄仁は黙っている。
「どうもお前、千鳥を何か意識しているように見えるんだけどね」
 律子の言葉に、雄仁はむきになって、
「母さんまでそんな事言うの? 柿の実拾おうとして手が触ったからって、だからどうしたって言うの? ああ嫌だ嫌だ、放っといてよ!」
 こう躍起になって物を言うと、相手は必ず本人の意向と逆の思い込みをするものである。律子も、雄仁は千鳥に特別な感情を持っていのは間違いない、と確信するに至った。
〈あの子も十六だもの。十六の秋に結婚したんだから、私達は〉
 律子は寝物語に雅仁に言った。雅仁は、
「そうだろうなあ。あいつも恋を知る歳か。……恋する男は、周りの者、特に母親なんかにあれこれ言われるのは鬱陶しいんだ、だから私達も、とやかく言わないでそっと見守ってやろう」
「そうね」
「私から見ても千鳥は、なかなかいい子だと思うし、……勘違いしないでくれよ、愛人として、って言うんじゃなくて、だから」
 雅仁が弁解がましく言うと、律子は笑って、
「誰が勘違いするのよ。夫の言葉尻を捉えて嫉妬するなんて、自信のない女のする事よ」
 律子の、この絶対的な自信は、やはり雅仁の唯一人の妻として、長年連れ添って苦楽を共にし、九人(この前年の夏、四女温子を産んだ)もの子を産んできた事から来るのだろう。それに、
〈もし何かあったら、あの事を天下にバラして、男を破滅させればいいんだからね〉
という、雅仁の絶対的な弱味を握っている事も、律子の自信の裏付けなのかも知れない。
 律子は翌日、浩子にも言い含めた。
「太郎兄さんの事、何かと気になるかも知れないけどね、やたらとちょっかい出したりしちゃ駄目よ。いい?」
 浩子は不思議そうな顔で、
「どうして?」
〈どうしてって、理屈で説明できる物じゃないわよ〉
 律子も困ったが、已むなく、
「そのうちお前にも、わかる日が来るよ。あと何年かすればね」
 こう言われてしまうと、何と言ってもまだ十三歳の浩子には、皆目理解できないのであった。
「ふーん……私にもわかる日が……」
・ ・ ・
 近江も北寄りの高島は、冬は雪が深い。郡司の館も十一月の末には、幾尺もの雪に埋もれた。
「今年は特に雪が多いですね」
 雅仁は雪囲いを修理しながら郡司に言った。
「このような冬は、疱瘡がひどく流行する事が時々あるのですよ」
 郡司は答える。
「寒いですからね。私は疱瘡はやりましたが」
 雅仁は顔のあばたを指して笑う。郡司も疱瘡は子供の頃に罹った事があり、あばたの数は雅仁と互角だ。
 ある夜、兄弟五人の部屋で寝ていた次男崔仁はふと目を覚ました。隣に寝ていた筈の兄がいない。寒い冬の夜の事とて、兄弟五人で身を寄せ合って同じ衾に寝ていたのだが、妙に隙間風が吹き込むので目を覚ましたのだ。兄の寝ていた跡はもう冷たい。厠に立ったのにしては長すぎる。崔仁はそっと衾を抜け出し、夜着の上に綿入れを重ね、父の部屋へ向かった。
 崔仁は足音を忍ばせて雅仁の枕元に歩み寄り、そっと雅仁を揺り起こした。
「父さん、父さん」
 雅仁は目を覚ました。
「誰だ? 次郎か。どうしたんだ?」
 雄仁は雅仁の耳に口を寄せて囁く。
「兄さんがいないんだ。衾を出たまま、ずっと戻って来ないんだよ」
 雅仁は上体を起こした。
「本当か? 厠じゃないのか?」
「衾が冷たいんだ」
 隣に寝ていた律子も、目を覚ました。
「どうしたの?」
「太郎が衾を抜け出したまま戻らないらしい」
 雅仁が言うと、律子も身を起こした。
「この夜中に? どうしたんでしょう?」
 律子が訝るのに、雅仁は、
「手分けして捜そう」
 燭台の火を紙燭に移し、三人で一本ずつ持つ。三人で手分けして、部屋毎に見て回るうちに、北の対の裏にある雑舎に来た。ここは物置や米倉になっている。
「こんな所にいるかな」
 首を傾げる雅仁に、律子は、
「ここにいなかったら、この館にはいないわよ、牛小屋にいるとは思えないし」
と囁いて、雑舎へ入っていく。一つの塗籠には、錠が下りていない。
「ここかしら」
 律子は口の中で呟くと、戸に手を掛け、そうっと引いた。戸は微かな軋りをたてた。
 その時、塗籠の中から微かな衣擦れの音がした。
「誰か?」
 雅仁は低く誰何しながら、塗籠に踏み込んだ。突き出した紙燭の光の中に、浮かび上がった人影が二つ、袖を上げて顔を覆うとするのを、雅仁は素早く歩み寄って腕を捕えた。手を引きのけてみれば、誰あろう、雄仁である。
「太郎、こんな所で、何をしてるのだ?」
 雅仁の問いに、雄仁は黙って答えず、静かに向き直った。もう一人の人影は、雄仁の背後に隠れる。雅仁は片膝を突き、今一歩にじり寄った。
「後ろに隠れてるのは誰だ?」
 雅仁は雄仁の肩越しに紙燭を差し出した。その時律子が、小さな声で、
「千鳥じゃないの!?」
 律子に見露わされて、千鳥は逃げ隠れできなくなったか、雄仁の肩越しに顔を出した。石のように沈黙している雄仁に、雅仁は言った。
「言わなくてもわかった。お前に話して聞かせる事があるが、それは明日にしよう。とにかく、今夜は寝ることだ」
 雅仁は雄仁を、律子は千鳥を手を取って立たせ、各々の部屋へ引き取らせる。
「いいな次郎、弟達には何も言ってはいかん」
 雅仁は崔仁に耳打ちする。
 翌朝雅仁は、崔仁に弟達の相手をさせておいて、雄仁を自室に呼んだ。雄仁は、それ程屈託した様子もない。
「なあ太郎、お前はもうすぐ十七になる。お前くらいの年になれば、千鳥のような女の子に恋をしてもおかしくない。お前が千鳥に恋しているのは、父さんにはわかってる。それに、昨夜のような事をしたくなるのも、お前の年になれば当然の事だ。今だから言うが、父さんは十六、今のお前と同じ年の時に、人目を忍んでは夜な夜な母さんの許へ行ったものだ。だから、お前がした事に対して、それを咎めるとかそういう積りはない。
 だが、いいか、男が女に恋し、女を愛するという事は、相手の女の一生に対して責任を持つ事なんだ。父さんは、お前達の父親として、お前達に対して一生涯責任を持ち続ける事になるが、それと同時に、母さんに対しても、同じくらいの責任を一生涯持ち続ける事になる。つまり、お前がもし千鳥を愛し、一生を千鳥と添い遂げようと思うなら、お前は千鳥に対して、一生責任を持たなければならないし、それに千鳥と結婚すれは、必ず子供が生まれるだろう、その子供に対して、全ての責任を千鳥と分け合って持つ事になる。お前に、お前がどんな境遇になろうとも、千鳥と、千鳥との間に生まれるだろう子供に対して、それだけの責任を持ち切れる自信があるか、よく考えてみるがいい。もし自信があるのなら、千鳥と結婚するとお前が決断したら、それはお前の、男としての決断だから、父さんは何も言わない。だがしかし、もし自信がなかったら、千鳥と結婚する事は諦めろ。無責任な恋愛は、千鳥を傷付けるだけではない、お前自身の傷となるのだ。その事をよく弁えて、よく考えてみろ。これはお前の一生の問題だからな」
 雄仁は、神妙に聞き入っている。
「具体的に言えば、例えばお前がここの農民として生きるとしてだな、千鳥と子供達を、飢えさせずに養っていく自信があるか、或いは、お前が皇族の一人として京へ帰ったとしたら、お前の子供達が、皇族の一員として社会を生きていけるように教育し、躾ける自信があるか、そういう事だ。人間というのは、子供を産んだらそれで一件落着という訳にはいかない、子供を産むのは、その子供を一人前の人間に仕上げる迄の長い道程の出発点に立つ事だ。
 まあ、今のお前に、将来生まれるだろうお前の子供を、必ず立派に育て上げると言い切れなくても仕方ないだろうがな。父さんだって、子供は九人目だが、全く一点の過ちもなく育て上げられたと、胸を張って言い切れるか、と言われたら、そこまではっきりとは言い切れんからな。だが、お前達に対しては、持てる限りの責任は持ってきた積りだし、今後も決してその責任を持つ事を怠らない覚悟はできてる」
 雅仁と雄仁とは、父と子としてと言うより、二人の男として膝を突き合わせている。
「父さん……何だか、僕には全然、見当がつかない」
 雄仁が当惑して言うと、雅仁は、
「今すぐ結論を出さなくてもいい。お前の一生を決める問題なんだから、焦らずゆっくり考えるがいい。千鳥とも、真剣に話し合ってみるがよかろう、お前だけの問題じゃないんだからな」
 昨夜は激情の迸るままに千鳥と逢引した雄仁であったが、父に諭されると、本気で考え込まざるを得なくなった。暫くの間、自分なりに熟考し、千鳥とも時々会って、真摯に胸中を打ち明け合った後、二人一緒に雅仁と律子の許へ来た。
「父さん、母さん、僕達、決心しました。結婚します」
 雅仁は、ほっと安堵した様子で、
「そうか、それだけの自信を持ってるんだな。私の教育は間違っていなかったようだ」
 律子も安心して、
「太郎、千鳥を大切にね」
 館の主人である郡司には、雅仁から話を知らせた。郡司としても、反対する理由はない。年が明けた一月半ばに、簡素な結婚式を挙げて、雄仁と千鳥は夫婦となった。雄仁は十七歳、千鳥は十六歳、似合いの夫婦と、館中に祝福された。
 雅仁も律子も、肩の荷が降りたような気分と同時に、一抹の寂しさも覚えた。
「早いものだなあ……あの子が、結婚とは」
「私達が結婚してから、十七年ですものね」
 この際ということで、十五歳の崔仁、十四歳の浩子の二人の元服も一緒に行った。元服したばかりの二人には、まだ大人の自覚は出て来ないが、遠からずこの二人も結婚するのであろうと思うと、何となく寂寞感が雅仁や律子の胸に湧き上がってくるのだった。
(2000.9.24)

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