私本落窪物語

第十章 典薬助
 さて典薬助という男は、北の方の母の弟で、年は六十歳を過ぎた、全く風采の上がらない老人で、中納言邸の北の対に部屋住みしているのだった。この老人、年甲斐もなく好色で、邸中の誰からも鼻つまみ者として扱われているのだが、北の方は律子姫への憎悪の余り、この老人に姫の身を委ねようと決心したのであった。
「落窪の君を、貴方に差し上げようと思っているのですよ。こういう次第で、雑舎に押し込めておいてある。今夜いらっしゃい」
 北の方が夕方、典薬助を呼びつけて言うと、典薬助は年甲斐もなくやに下がって、
「それはそれは嬉しいことで。全くもって有難いことですじゃ」
と、歯の抜けかかった口を歪めて笑う。その様子に北の方は、自分が考えついた事ながら嫌悪感を覚えた。
 夜になると典薬助は、一刻も早く姫を我が物にしようと胸をときめかせ、落ち着かない様子でうろつき回り、明子の部屋へ来た。
「阿漕さん、あんたはもうじき、儂にお仕えなさる事になるじゃろうね」
と、下卑た笑いを浮かべて言う典薬助に、明子はぞっとして、顔を見るのも厭わしく、冗談じゃない、あんたが帝だったとしても、あんたに仕えたりなんかするものかと思いながら、外見は平静を装って、
「どうしてですの?」
「落窪の君を儂に下さったのさ、じゃから、あんたは落窪の君付きの女房じゃろ」
と典薬助が言うのを聞いて、明子の驚きようは言葉では表せない。
 冗談じゃないわ! 姫様には少将様という歴とした御夫君がいらっしゃるというのに、よりによってこんなヒヒ爺のものになさるなんて、女として許せない! 明子は怒りの余り涙を流しながら、それでも平静を装って、
「そ、それは、姫様には、しっかりした御後見がいらっしゃらなくて、心許なかったのに、貴方が御後見とは、頼もしい事ですわね。それは、お殿様がお許しになったのですか、それとも北の方様が?」
 典薬助はかまをかけられたのに気付かず、
「中納言殿も儂を御贔屓にして下さるのに、まして儂の身内の北の方は尚更じゃよ」
と得意げに言って、皺だらけの顔を一層皺だらけにして笑う。やはり北の方だったわ。
「そ、それで、いつ御一緒に?」
 明子が怒りを抑えて尋ねると、典薬助は嬉しそうに、
「今宵じゃよ」
「今日は姫様は、御物忌の日ですのに、おいでになるのは無理ですわ」
「いやいや、お姫さんは情人を持っておられることじゃから、早くしないと、のう? ほほほ」
 典薬助は笑いながら立ち去る。明子は、後ろから襲いかかって叩きのめしたくなるほどの憤怒にかられつつ、何とかして姫様を、あの好色爺からお守りしなければ、と考えて、人目を忍んで姫のいる雑舎の塗籠へ来て、そっと戸を叩く。
「誰?」
「私ですわ。今夜典薬助、姫様も御存知でしょう、あの厭らしい爺ですわ、あの爺が姫様の許へ参ると申しております。充分、御用心なさって。私は典薬助には、姫様が御物忌の日だと申しておきました。ひどい事になりましたわ。どうしましょう」
 姫の返事はない。姫は驚きと恐怖の余り、半ば失神状態になってしまった。女としての生理的な嫌悪感が、むらむらと湧き上がってくる。少将様以外の男のものになるくらいなら、本当に死んだ方がましだわ! 心痛の余り、本当に胸が痛くなり、気分が悪くなってきて、俯伏してとめどなく泣いている。
 まだ宵の口というのに、北の方は忠頼卿を早く寝入らせようと、邸中に灯を点し、卿には晩酌を勧めなどする。卿は早々と寝入ってしまったが、それを見極めて北の方は、典薬助を呼んで、雑舎へ向かった。
 北の方が戸を開けると、姫は俯伏して、正体もなく泣いている。北の方は、
「まあ、どうしてそんなに泣くの」
「……胸が……痛くて……」
 微かな声で、途切れがちに答える姫に、
「まあ可哀想に。食べすぎじゃないかしら?」
 夕飯も与えずによくまあ臆面もなく言えたものだ。
「丁度良かった、典薬助さんに診て貰いなさいな」
「い、いいえ、あんまり痛くないですから、いいですわ」
「そう言わないで。胸の痛いのは、放っておくと大変だよ。さ、典薬助さん、こちらへ」
 そう言われてやって来た典薬助、顔はもう緩みっ放しである。
「胸が痛いのですと? それは大変、すぐにこの儂が、治して進ぜよう」
と言って部屋へ入ってくると、北の方はすぐ戸を閉めて、錠はかけずに立ち去った。
 典薬助は律子姫と差し向かいになると、俄に持前の好色ぶりを発揮して、
「胸が痛むのですな。どれどれ」
と嫌らしい口調で言いながらにじり寄る。姫は恐れをなして、後ずさりする。
「儂が今夜、お姫さんを診ておるのは、邸中皆が承知の事ですじゃ」
 典薬助の言葉に、姫は蒼ざめた。それでは、もし声をあげて人を呼んでも、誰も来ないのか。姫は全身の力が抜ける思いで、典薬助に抗う気力も俄かに萎えてしまった。程なく典薬助は姫を、塗籠の隅へ追いつめて、姫の胸元へ手を入れて、筋張った手で姫の乳房をまさぐる。姫は余りの嫌悪感と恐怖に声も出なくなり、歯の根も合わぬほど震えながら、激しく涙を流している。やっとの事で、
「あ、貴方が、側にいて下さるのは、大層頼もしいのですけど、い、今は、苦しくて、……」
 すると典薬助は、何を勘違いしたのか、
「そうですかの。では尚更、早く治して進ぜよう、ほほほ」
 姫の額や頬や、胸元や腰に手を触れる。姫は生きた心地もせず、身体を強ばらせている。
・ ・ ・
 明日は賀茂祭というので、頼実君の方は取り込んでいて、夜遅くまで働かされていた明子は、夜が更けるにつれて居ても立ってもいられなくなり、そっと抜け出して雑舎へ来た。見ると、錠は下りていない。さては典薬助が、と危ぶみながら、戸を静かに開けて入ると、典薬助が律子姫をかき抱いている。明子は、絶望と憤怒に狂いそうな心を強いて落ち着けると、典薬助に、
「今日は姫様は、お慎みなさらねばならない日だと申しておきましたのに、何をなさるんです」
と抗議するように言う。典薬助は、邪魔が入ったと思うと苦々しく、
「何を申される。儂が不埒な振舞をしたと申すのならともかく、北の方が、姫君の御胸を診察するよう、儂に姫君をお預けなさったのじゃ」
と言っているのをよく見ると、装束を解いていない。姫は典薬助の腕の中で、際限なく泣いている。こんな時にただただ泣いてばかりいらっしゃるようでは、どうなるのか。ここは私が奮起して、この爺から姫様をお守りしないことには。明子は一計を案じて、
「姫様、温石をお当てなさったら?」
 姫は言葉もなく頷く。明子は典薬助に、
「典薬助様、今となってはお頼りできるのは貴方様だけです。どうか姫様のために、温石をお持ち下さいませ。邸中皆寝静まっておりますから、私如きが頼んだところで、到底温石を整えてはくれますまい。これをなさることで、貴方の姫様へのお志が、姫様にもおわかりになるでしょう」
と言っておだて上げると、典薬助は相好を崩して、
「そうでしょうな。姫君が儂を頼りにして下さるなら、何でも致しますぞ。岩山をさえ動かすことを厭わぬ、まして温石くらい、たやすい御用ですじゃ。姫君を思うて燃える心で、石を焼いて進ぜようぞ」
「早く持ってきて下さいな!」
 明子は典薬助の冗舌に腹が立った。典薬助はすぐ承知して、これくらいの事で姫君が儂に親しみなさるならたやすい事、と浅薄にも喜んで、部屋を出て行った。
「姫様、おいたわしい。これから、どうなさるお積りですの?」
 典薬助がいなくなると、明子は言った。
「……気分が悪くて……それに、あの年寄りが近くにいるのが嫌で……そこの戸を、閉めて、典薬助が入れないようにして……」
 姫は啜り泣きながら言う。
「それでは、典薬助が北の方様に、どう告げ口するか心配ですわ。今夜は、適当にあしらっておやりなさいまし。もし頼みにできる人がいるのなら、今夜あの爺を締め出して、明日その人に知らせましょう。けれど今では、帯刀もおりませんし、少将様も、こんな時に宿直でいらっしゃらないとは何とも腑甲斐のない!」
 明子は些か腹立たしげに言う。姫は答えず、黙って泣いている。本当に少将様さえも、どこまでお頼りしてよいのだろうか。そこへ典薬助が戻ってきて、温石を姫に手渡すのを受け取るのも、何とも辛いものであった。
 典薬助は装束を解いて、姫を抱き臥そうとするので、姫は心底ぞっとして、
「貴方様、どうか、そんな事をなさらないで。胸が痛む時は、起きて押えていると、少しは楽になるのです。後々の事をお考えになるなら、どうか今夜はお独りで」
と必死の言い逃れを図る。明子も加勢して、
「今夜だけでございますよ。御慎みの時期は」
 典薬助は、そうだろうと納得したのか、
「では、儂に寄りかかりなされ」
と言って横になり、程なく聞き苦しい鼾をかき始めた。姫は嫌々ながら、典薬助に寄りかかって坐っている。
 姫は、やにわに小声で、しかし切実に、
「私、本当に、この人と一緒にいるのは嫌だわ!」
 明子は頷き、目を光らせて言った。
「それなら決まりました。もし爺が目を覚ましたら、温石が冷めたと言って、代りを持って来させなさいませ。その間に、締め出してしまいましょう!」
 この声を聞きつけたか、典薬助は目を覚ました。姫は苦しそうに胸を押えて、
「何だか、少しも楽になりませんわ。温石がすっかり冷めたようですの。どうか代りの温石を、持ってきて下さいまし」
 典薬助は目をこすりながら起き上がって、
「もう冷めたかの。よしよし、すぐ代りの温石を持って参ろう」
と言って出て行く。
「さ、姫様、今ですわ、お急ぎなさいませ!」
 明子は姫に囁くと、戸を外側から支う棒を持ち出す。
「姫様、あとはお任せしますわ。私は夜のうちに、帯刀に会って、明日の手筈を整えさせますから。お気をつけて!」
 姫は黙って微笑む。姫が笑ったのは、今日になってから初めてだ。明子は少し安心して、戸の外側にも棒を支うと、音もなく外へ出て、土塀の崩れたところから、脱兎の如く走り去った。姫は、唐櫃やら樽やらを戸の内側に押しつけて、戸を開けられないようにする。
 やがて典薬助はいそいそと戻ってきて、戸に手をかけたが、戸はびくともしない。
「こ、これはどうした事じゃ、戸が開かぬぞ。何か支ったかな。何という事をなさるのじゃ、邸の人は皆、姫君と儂との仲をお許しになっていらっしゃるのに、何故じゃ?」
 典薬助は狼狽するが、中からは何の返事もない。戸を押しても引いても、叩いても揺すっても、全く開かない。
「えい、今に何とかなるわい」
 諦めて典薬助は、戸口の前の廊下に坐り込んだ。ところが寒い冬の夜のこと、坐っていると下腹が冷えてくる。そのうちに、妙な具合に腹が鳴ってくる。典薬助は慌てて、自分の持っている温石で自分の腹を温めることにも思い至らず、
「うっ、弱ったっ、腹が」
などと言っているうちに、腹がきりきりと痛んできて、もうどうしようもない。典薬助は、尻を押えて、それでも錠を下ろして、慌てて逃げ去った。姫は、典薬助を撃退できたと思うと、胸の苦しさが嘘のように楽になって、横になってぐっすりと眠った。
・ ・ ・
 夜更け、大納言邸の門を叩く女がある。門番が起きて、不機嫌な声で訊く。
「この真夜中に、何の用だ」
「帯刀の妻です。至急、帯刀に取り次いで下さいませ」
 少し後、出居に坐っている明子の前に、惟成が出てきた。
「明子、よく来てくれた! 懐しいなあ……」
 感激する惟成に、明子はてきぱきと、
「そんな事言ってる場合じゃないわ。いい、明日の賀茂祭には、お殿様から北の方様、お邸中皆で見物に出かけるのよ。だからその留守に、姫様をお連れ出しするのよ。姫様の居場所は、わかってるわね、雑舎の塗籠よ。あんた、今すぐ宮中へ参って、少将様にお伝えして」
 惟成は真顔で頷いた。
「わかった」
「じゃ、昼間、また会いましょ」
 明子は、再び夜の道を、中納言邸へ戻ってきた。自分の部屋へ下がる前に、ちょっと雑舎へ行ってみると、塗籠の戸は開けられた形跡がない。ほっと安心し、水音のする方へ行ってみると、典薬助が鼻を啜りながら、慣れぬ手つきで袴を洗っている。明子は内心、思いきり嘲笑したいのを抑えて、姫のいる塗籠へ行き、外から支った棒を外し、隠した。
・ ・ ・
「そうか、わかった。では明日の昼頃、中納言邸の留守を見計らって、姫をお救いしよう。と言って、いきなり本邸(大納言邸)に迎え取るのは、父上や母上に迷惑がかかるかも知れん。二条の邸、あそこに当分、住もう。惟成、朝になったら二条の邸へ行って、掃除させておいてくれ」
 惟成の報告を聞いて、道頼君は言った。
「かしこまりました」
・ ・ ・
 朝になって、道頼君は将曹を使いとして、律子姫への手紙をよこしてきた。明子はこの手紙を、どうにかして姫様にお渡ししたいものと思うが、よい方策も思いつかぬうちに、典薬助がやってきて、不細工な結び文を渡し、
「これを姫君にお渡しして下され」
と照れ笑いしながら言う。明子は虫酸が走る気がしたが、姫様に少将様の御手紙をお渡しする口実、と考え直して、受け取った。道頼君の手紙と一緒にして、硯箱に入れて雑舎へ持って行く途中で、北の方に会った。
「典薬助様のお手紙があります。どうやって姫様にお渡ししましょうか」
 北の方は、典薬助が本意を遂げられなかった顛末は何も聞いていないので、典薬助のような者でも後朝の文を書くというのが可笑しくて、上機嫌で、
「典薬助が落窪の気分をお尋ねなさるのかい。そりゃ結構な事だ」
と言って引き返し、塗籠の錠を外したので、明子は北の方の思い込みが可笑しくて、
「姫様、お手紙ですわ。お返事を」
 誰の、とは言わないで硯箱を差し入れた。姫が硯箱を開けると、結び文が二つ入っている。小さい方を取って広げると、道頼君の文であった。
「御様子はいかがですか。日が経つにつれて、貴方の御境遇の厳しさが一層偲ばれ、また、我が身の腑甲斐なさが思われてなりません。でも決して、貴方を今の御有様のままには致しませぬ。希望をお捨てなさるな」
 姫はしみじみと君の心遣いが胸に滲みて、涙を押し拭いつつ返事を書く。
「私の身の上をお思い下さる御志は忝う存じますが、拙き身故に貴方様を悩ませ申すのは心苦しうございます。御自分をお責めなさいますな。
かしこ」
 典薬助の手紙は、手に取る気もしないで、硯箱に入れたまま突き返す。明子は返事を受け取ると、さっと立って行き、待っていた将曹に託した。それから自室で、典薬助の手紙を開くと、古風な書体で、
「夜通し苦しみ給う事、大層大層御気の毒に存じ申す。翁、残念至極にて候。我が君我が君、今夜こそ嬉しき目見せ給え。御側に候えば、命延び、心地若くなり申すべく候。我が君我が君、どうかどうか翁をば憎く思い給うな。
 老木ぞと人は見るともいかで尚花咲き出でて君に見馴れん」
 明子は心底苦々しく思って、素っ気なく返事を書いてよこした。
「枯れ果てて今は限りの老木にはいつか嬉しき花は咲くべき」
 典薬助、明子の目の前で手紙を開くと、何を勘違いしたのか目尻を下げて喜んでいる。どうせあんたなんか、永久に姫様に逢えやしないわよ! 明子は内心捨て台詞を吐きながら自室へ戻り、荷物を整理し始めた。
(2000.7.19)

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