釧路戦記

第四十三章
 仮監峠を抜いた我が軍は、一路達古武へと下ってゆく。下り坂をトロッコは快調に走り、私達の行軍も速さを増す。
 十時四十分頃、達古武の集落を通過した。学校の近くで、何気無く左手の遠くを見ていた私は、地平線上を動いてゆく何かに気付いた。この集落の西の方は、丘陵地が達古武川によって深く抉られて入り江のようになっており、その中に達古武沼を抱いている。そのすっかり凍った達古武沼の彼方、見はるかす地平線の果てに、ゆっくりと動いていく物がある。
「何だろう? あれ」
 やがてそれは、北の方に張り出した山地の向こうに見えなくなった。
 やっと分かった。遠矢から塘路まで、この道よりずっと西、釧路湿原との境を走っている釧網本線に違いない。
 達古武から北へ向かうと、また苦しい上りになった。トロッコが漕いで登れないような坂では、何人かかかってトロッコを押して登る。曲がりくねって山の頂上まで登りつめた。十二時を過ぎている。中隊長が停止をかけた。
「一二三○まで休止だ」
 やっと飯が喰える。私達は地べたに坐り込み、食糧を食べた。水を飲もうと思って水筒を開けると、これはしたり振っても一滴も出てこない。凍っている。朝方の気温は氷点下十五度位まで下がった。今でも――昼過ぎというのに――氷点下だ。しかし私達は、ここまでの上り坂で、充分暖まっていた。
 皆は凝った肩を揉み合ったり、膝を伸ばしたりしている。両肩から十キロの弾帯を二本襷掛けにしていると、肩が凝って痛い位だ。
 中隊長は、私達小隊長四人を集めて言った。
「未確認情報だが、塘路に敵が集結しているという情報がある。確認のため、斥候を出す」
 私はすかさず言った。
「私が行きます」
 秋山が私を見て言った。
「また行くのか?」
 私は自信満々で答えた。
「任せて下さい。ただ見てくるだけの斥候とは違います」
「よし、行け。お手並拝見といこうじゃないか」
 一礼して隊へ向かった私の後ろから、誰かの声がした。
「宮本が矢板を要塞に迎えたがらなかった訳がわかるな」
 私は隊に戻ると、飯をかき込んでいる石田に小声で言った。
「おい、石田、例のやつは持ってるだろうな?」
 石田は飯を嚥み下してから答えた。
「あれでしょ? 持ってます」
 私は周りにも聞こえるような声で言った。
「石田、飯を喰ったら斥候だ。一緒に来い」
 私と石田は、すぐに出発した。銃と銃剣だけの軽装で、私は無線機と双眼鏡、石田は背嚢一つを背負っていく。
 出発して少時行くと、前方から自動車の音がした。私達は素早く、道端の林に隠れた。近づいて来たのは敵のジープだ。下士官が一人で運転している。
「行くぞ!」
 ジープが目の前を通り過ぎようとする時、私と石田は林から飛び出した。石田が敵兵の顔に砂を投げつける間に、私は助手席に飛び込み、サイドブレーキを引いて車を停めた。手刀一閃、気絶した敵兵に、銃剣で止めを刺して林へ放り込んだ。
「石田、急いで着替えろ。敵を撹乱するぞ」
 そう言いながら私は、石田の背嚢から准尉の軍服を取り出し、革命軍准尉に変装した。石田は軍曹に変装する。石田に運転させ、無線機を後部座席の下に隠し、私は後部座席に入った。
「いいか、俺は渡辺准尉、お前は桜田軍曹だぞ。間違えるな」
「はい、准尉殿!」
 ジープは坂道を下ってゆく。
 やがて道の前方に、氷の張りつめた塘路湖が見えてきた。少し左の方に、湖と釧路湿原を区切る砂州があり、その上を釧網本線と広い道路が通っている。砂州の南側に塘路の町がある。……待てよ。あの程度の町にしては通りに見える人影が多過ぎる。私は素早く双眼鏡を取った。
 敵だ。敵がいる。情報は正しかった。敵は百内外か。トラックがいる。
 町のすぐ近くまで下りて来ると、敵情が手に取るようによくわかる。よく見ると、百人からいる敵の中に、将校は一人もいないようである。(将校と下士官兵は軍服の型が違うので、双眼鏡で良く観察すればわかる)となれば、私は将校に化けているのだから、出鱈目の命令を出して敵を潰すことは難しくはない。
 町に入ってゆくと、近くにいた一群の敵兵が一斉に敬礼した。私は答礼してから、伍長の階級章をつけた下士官に訊いた。
「ここの部隊長はどこにいる?」
「あのテントです。呼んで来ましょうか」
 伍長は少し離れた幕舎を指して言った。
「そうしてくれ」
 やはり将校はいないのだろう。大尉や中尉が、准尉に会うためにこの寒いのに幕舎から出て来るだろうか。
 部隊長が来た。やはりそうだ。上級曹長である。人数からすると中隊だから、中尉くらいがいてもいい筈なのに、いないということは、将校の払底を物語っていよう。
「第三中隊の、西村です」
 上級曹長は敬礼すると言った。
「渡辺だ。達古武から来た。
 達古武で敵兵を捕虜にしたが、その敵兵の言うところによると、敵部隊が沼ノ上からここへ向かっているらしい。約五十人だ。部隊を出動させて迎え撃て」
 私は出鱈目を言った。
「ここで迎え撃ちます」
 西村が言うのへ、私は言った。
「いや、出動させろ。ここは物資集積所になっているようだが、ここで迎え撃つとなれば、物資の損害は免かれ得ないぞ」
「ではそうしましょう」
 西村は言った。
 私は内心ほくそ笑んだ。どんどん思う壷にはまってゆく。ここで敵と戦うとなれば、彼我の勢力は大体同等だから、守る立場にある敵に利がある。だから、何とかして敵を出動させてどこかで迎え撃つことができれば、敵の有利はなくなるのだが、敵を町から離れた所へおびき出して、その間に町を占領し、敵を呼び戻して迎え撃てば、今度は最初の敵の利がそっくり我が方に回ってくる。その上、時間の余裕があれば敵の物資をそっくり頂ける。ただ、市街戦の場合、住民をどうするかが大問題である。一人の死傷者も出してはならないのだ。しかしそれも、今は問題ではない。敵が沼ノ上まで行って、策中に陥ちたと気付いて戻ってくるまでには二時間以上の時間がある。その間に、どこかに避難させればよいのである。
 敵は、沼ノ上へ向かって出動して行った。私は車を町外れへ移動させ、無線機を取り出した。
「TMH、こちらTYH、応答願います。TMH、こちらTYH、応答願います」
〈こちらTMH。TYH、どうぞ〉
「TYHです。敵約百がいました。敵は、沼ノ上方面へ移動して行きました。阿歴内方面の部隊に、西進して迎撃させて下さい。中隊は、至急塘路へ移動して下さい。以上」
〈了解〉
 町から敵兵がいなくなった事を確かめると、私達は物陰で軍服を着替えた。物資は、十字路の辺りに積まれたままになっている。
 やがて、中隊が山を下ってくるのが見えた。
 中隊長が来た。私は、現在の状況を説明してから言った。
「住民を、二股地区か、砂州の北側へ避難させて下さい。味方の迎撃線は、集落の東方二−三百メートル付近に張って、民家に対する被害を極力喰い止めなければなりません。物資も、無傷で分捕るために、トラックごと釧路へ送りましょう」
「わかった。
 現在、沼ノ上からこちらへ甲信、東海中隊が向かっている。敵がここを出たのは何時頃だ?」
「一時半過ぎだったと思います」
「それなら、ヘネコロンベツ川とオンネベツ川の間で衝突するだろう。その間に、住民を避難させよう」
 私達は、住民を避難させるため説得に回った。先月末からの釧路の市街戦の有様が知れ渡っているためか、住民は皆好意的に避難してくれた。
 住民を避難させ、物資をトラックに積み込んで後送してから、私達は町東方の、畑が尽きた先の草地に展開した。草地の中に、兵士百数十が小銃を構えて伏せ、重機十六挺と迫撃砲八門が敵を待つ。
・ ・ ・
 三時頃、東方の畑の中に続く道に、数十の人影が見えた。双眼鏡で観察してみると、敵である。
「来たぞ。迫撃砲と重機、用意しろ」
 敵は、出発して行った時とはうって変わって、隊列は全く乱れ、我先にと走って来る。五十人の筈の敵が、実は二百余人だったために惨敗を喫し、態勢立て直しのために退却してきたのだろう。退却してきたところで、拠とする町は既に占領されている。勝負は見えた。
「射て――っ!」
 中隊長の号令が下った。重機が咆哮する。銃が火を吹く。銃声、爆音、呻き声が交錯する。逃げ惑う敵兵は、次々に射倒されてゆき、敵は我が方へ射かけても来ない。
 やがて、敵を追走してきたらしい友軍のトロッコが遠くに姿を現した。これに挟撃されて敵は全滅した。トロッコに続いて、友軍の兵士達が続々と進撃してきた。
 戦い済んでもそれで終わりではない。敵の武器弾薬を可能な限り押収し、トラックで後送する作業がある。一台残っていたトラックに積めるだけ積み、積み残しは後方のトラックが来るまで置いておくことになって、数人の兵士を残して部隊は出発した。
 町を出ると、塘路湖から流れ出る川を渡る。右に白く氷結した塘路湖、左には鉄道の線路の向こうに釧路湿原や、これも氷結したエオルト沼を見ながらゆく。
 前方の山に突き当たると、道は右へ曲って鉄道と別れ、塘路湖の岸に沿って山麓を通ってゆく。暫くゆくと道は左折して湖岸から離れ、低い峠へ向かって登ってゆく。登りにかかった頃、日は沈んだ。峠から下ってゆくと、左手の尾根と前方に突き出した山との間に、白く氷結したシラルトロ沼が見える。藍色に澄み渡った空の下に波打つ濃灰茶色の山林、真っ平らな白茶けた湿原、真っ白に凍った湖、山裾を縫う道、実に静かな風景ではある。しかしその静けさは我々によって破られる。曲がりながら降りて行った道が小さな川を越え、右側に迫る山地の裾を回って暫く進んだ頃であった。
 右へ僅かに曲がった時、前方から激しい銃火が起こった。
「伏せろっ!!」
 トロッコの陰から前方を窺ってみると、前方に土嚢が積まれ、軽機数挺が据えられている。二車線の道幅一杯に拡がった土嚢からは、小銃の銃火も起こってくる。
「大した事は無い、迫撃砲だ」
 私は言った。何人かの部下が迫撃砲をトロッコから下ろし、車体の陰から発射し始めた。たちまち土嚢が吹き飛び、軽機は横転し、敵兵は舞い上がる。敵の銃火は次第に衰えてゆく。
 やがて敵は、陣地を捨てて退却を始めた。私達は突撃にかかった。しかし、幾らも行かぬうちに、銃火の前に我が軍は釘付けになってしまった。前方の、山陵の末端の僅かな高まりを道が横切る所に、トーチカが築かれていたのだ。その周辺にまた陣地があり、ここから銃火が起こってくる。トーチカから炎が噴いたと見る間に、右手の林で爆発が起こった。
「退却だ、退却!」
 中隊長が叫ぶ。私達は砲火に追い立てられながら、左手に張り出した山地の陰まで退却した。
「川田がいません」
 酒井が私に言った。確かに姿が見えない。退却してきた道を振り返ってみると、川田は少し先に倒れていた。退却の途中に射たれたらしい。匍匐前進で傍へ寄って、手首に触れてみると既に脈はない。私は戻った。
「川田は死んだ」
 他にも数人の負傷者がいた。
(2001.2.12)

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