釧路戦記

第十五章
 私はこの言葉を聞いて訝かった。副小隊長だって? そんな身分があるのか? 中隊長は言葉を続けた。
「八月十五日付で、東京第一中隊第一副小隊長に昇進したのだ。
 副小隊長なんて聞いた事もないだろう。
 実はな、先月お前と吉川が同時に後方送りになって、小隊長を誰にするかで問題になったのだ。儂はお前が適任だと考えたし、吉川もそれを大いに望んでいた。しかしお前は、いつ復帰するかもわからん重傷だった。いつ復帰するかわからん者を小隊長にして、いつまでも実質的には小隊長を空席にしておく訳にはいかんのだ。
 それで儂は、中隊付参謀のうちから、宮本を小隊長に任命したのだ。宮本が、小隊長になりたがったからでもあるがな。お前の同僚達にしてみれば、宮本ははっきり言って他所者だからな、必ずしもうまくいくとも限らんだろうが、それは仕方なかった。何しろ本命は後方にいたんだからな。
 今日、矢板が復帰すると決まって、儂としては宮本を参謀に呼び戻して、お前を正規の小隊長にさせたかった。ところが宮本がな、要塞守備の経験がなく、しかも一ヵ月も後方にいた者に、最前線の要塞守備隊長は務まらんと言い出して、どうしても小隊長の地位を明け渡さんのだ。あれの言う事にも一理あるし、それで、特例として副小隊長という身分を作って、お前を任命した訳だ。第一班の班長には、もう谷口が決まっていたんでな。
 さ、これを着け給え」
 中隊長はこう言って、黒字に黄線三本の小隊長の階級章を私の手に持たせた。私は深々と一礼した。
 秋山参謀が言った。
「君の小隊は今ここにはいないよ」
 私は参謀の顔を見た。
「中隊長の話にもあったが、要塞守備隊となっている。今日はトラックが来る日の筈だからもう少し待ち給え」
 私は中隊長室を辞して、小隊の部屋へ行った。そこには誰もいず、私の荷物だけが残っていた。私は上衣を脱ぎ、襟と肩の古い階級章を取り、新しい階級章を縫いつけた。しかし、階級章は小隊長でも身分はそうでないのだ。何となくすっきりしない気分だった。荷物を持って、兵舎の前に佇んでいると、やがて西の方からトラックがやってきて、私の前で止まった。運転していた酒井が叫んだ。
「矢板班長! いや、矢板副小隊長!」
 助手席から河村が降りてきた。
「待ってたぞ。さ、乗れよ」
 私は河村と酒井の間に乗り込んだ。開口一番、私は二人に言った。
「どういう訳で『副』小隊長なんて身分になったのか、よくわからん。これは三線だが、実際は二線半なんじゃないか。俺がお前達の上官になったからと言って、やたらに丁重に接して欲しくはないな。元は同じだったんだから決まりが悪い」
 車は風蓮川を渡って烹炊部に着いた。私は河村に訊いた。
「何しにここへ来たんだ?」
「石炭と食糧を補給するためだ。これが食糧の割り当て表」
 河村はポケットから折り畳んだ紙を出した。拡げてみると、米一人一日四百グラム、乾肉同百グラム、味噌同十五グラム等々、食糧の一人一日当りの分量が細かく記してある。これまではただ割り振られたのを受け取るだけだったから、一個小隊レベルでの食糧の量などはあまり考えたこともなかった。
「今うちの小隊は何人いるんだ?」
「矢板が戻ってきて三十五人だ」
 私は車から降りると、後ろに乗っていた数人の部下を指図して、食糧を積み込ませた。無論、私も運搬にたずさわった。烹炊部の人は、久しぶりに見る私を懐かしそうに見ていた。特に三線の荒井という男は私と親しかった。
「矢板、戻って来たか。後方でゆっくり休んで来たな。一ヵ月分のつけは早く返せよ」
「それを言うならお前だって戦場で敵を殺した事あんのか?」
「銃を執らなくたって、二個大隊の胃袋を預かってるんだぞ」
 食糧を積み終えると、今度は車は東の方の兵站部へ向かった。ここで武器を補充していく。私は河村に訊いた。
「一体何をどれくらい補充するんだ?」
「今月前半期には重機弾一三五○発、小銃弾弾倉一七七個、手榴弾二三一発、迫撃砲弾一二一発、それからバズーカ弾を四発使った。この実績からすると、後半期分は、重機弾七千発、小銃弾弾倉三○○個、手榴弾四○○発、迫撃砲弾二○○発を補充しておけばいいだろう」
「かなり多いな。余ったらどうするんだ?」
「余ったら? 倉庫を広げて納めておく。包囲された場合とかに使うためだ。今までで、そうだなあ……重機弾なんか二万発はあるな」
「籠城戦の準備か……」
 さて武器補給も済み、物資を満載したトラックは、風蓮川を少し下った所の斜面から、兵舎の上に当たる台地に登り、南へ向かって走った。
「この道はうちの小隊へ行く近道なんだ。ごくわずかな轍の跡しかないから、目印を知らないとまず走れない。三回ばかり川を渡るがね」
 車は広漠たる草地の中を走る。浅い沢を上って下りにかかると、前方に川が見えた。
「あれが十七番川だ」
 河村が言った。これを渡ってまた緩やかな丘を越えると前方に深い沢がある。これは南十八番川、風蓮川右岸の支流のうちでは大きい方だ。今度はこの川を左に見ながら下り、南二十番川の小流を渡り、空沢をいくつも見ながら走ると、やがて林に入った。そして車は停まった。河村が言った。
「ここに兵舎がある」
 右に見える崖の下に、木の扉がついている。中隊の兵舎をもっと小さくしたような物か。扉を開けると廊下があり、突き当たりに一つ、左に三つ、右に一つまた扉がある。右が兵員室、突き当たりが倉庫、左の三つは中が便所、手前が小隊長室である。奥はわからない。私は右の扉を開けた。皆が振り返った。
「俺だ、矢板だ。帰ってきたぞ」
 誰からともなく声が起こった。
「班長! いや、副、小隊長!」
「矢板班長が帰ってきたぞ」
「いや、副小隊長だ」
 しかし、何となく活気がない。
 皆のざわめきの中で私は言った。
「今日から俺は矢板副小隊長になった。だが、だからと言って今までと違う態度で接して欲しくはない。俺は副小隊長ではなく、班長の一人だと思ってくれ」
 後ろの扉が開く音がした。振り返ると、そこに宮本小隊長がいた。私は一礼して言った。
「矢板副小隊長、着任しました」
 小隊長は鼻を鳴らした。
「フン。俺をさしおいて部下に挨拶か。ここの長は俺だ。肝に銘じとけ」
 およそ吉川小隊長とは雲泥の差だ。こんな男を上官に持つとはとんだ貧乏くじである。
「副小隊長なんて身分になって、三線だと思っていい気になるな。本当ならお前は、宮島の爺の参謀にでもなって、朝から晩までへいこらしてるところだったんだ。それを俺が、後方へ行ってたお前に実戦経験を積まそうと思って、特別に頼み込んでここの要塞に、以前の同僚と一緒にいられるようにしてやったんだ」
 中隊長とまるで違う事を言っている。まずもって信用できぬ男だ。
「昔からな、副なんとかってのは名誉職と決まってるんだ。ここの事は、俺が一切取りしきる。お前は、俺の部下の一人にすぎん。副小隊長なんかになって、三線気取りでいい気になってたら、いつでも宮島爺の小間使にするからな」
 小隊長は振り返り、乱暴に扉を閉めて出て行った。兵員室は、すっかり静まりかえっていた。
「この部屋の雰囲気が、基地にいた時とまるで違う訳が、よくわかったよ」
 私は呟いた。
「せめてジャックを引くと思ってたら、ババだったって訳さ」
 河村が言った。
 後ろの扉が開く音がした。振り返ると山岡がいた。
「山岡。どこにいたんだ?」
 河村が代って説明する。
「ここへ来る時に、山岡も一緒に来たんだ。ところが、三十人の荒くれ男と同じ部屋で寝るのを嫌がるもんだから、小さい部屋を掘って使わせてたんだ。――今日からどうする?」
 私は言った。
「そんな気遣いは無用だ。山岡、これからも個室にいていい。俺は兵員室で寝る。それでいいだろう」
「……」
「俺はやっぱり、個室を当てられるよりも部下達と一緒に雑魚寝の方が性に合ってる。わざわざ個室を掘ってくれなくても良かったのに」
「……庶民的な上官だ」
 そこへ小隊長が入ってきて言った。
「いつまでこんな所にいるんだ? 副小隊長の個室は作ってある」
 河村と言うことが違う。私は河村を見た。河村は小隊長に向かって尋ねた。
「副小隊長の個室というと、今、山岡が使ってる部屋ですか?」
 小隊長は嘲るように言う。
「他に部屋があるか? お前は上官を倉庫や便所に住まわす気か?」
 河村は黙った。私は言った。
「小隊長の言うことと、河村の言うことが違ってるんで、事情がよくわかりません」
 小隊長は軽蔑のまなざしを向けた。
「お前も結構物分りが悪いな。この要塞の部屋取を言うからよく聞いてろ。
 ここに兵員室がある。三十何人住むための部屋だ。部屋を出たところの四つある戸のうち、正面が俺の個室だ。その隣は便所だ。右の突き当たりが倉庫だ。そして、もう一つが副小隊長室、つまりお前の個室だ。それ以外に部屋はない。
 本当は副小隊長室は作らん積りだった。ところが、この女が、部屋をよこせと言ってきた。一線の分際で、部屋をよこせとな!
 勿論俺は、小隊長室をやりはしなかった。俺は、つけるべきけじめはつける主義だからな。それで俺は、こいつの我侭を通させて、建設工事で疲れてる連中にもう一部屋掘らせた。
 お前を副小隊長としてここに置くと決まって、俺はお前に個室を作ってやろうと思った。お前も一応、三線には違いないからな。それでだ、こいつの部屋を接収することにした」
 私は言った。
「私に個室は要りません。兵員室に、部下達と雑居します」
 小隊長は色をなした。
「俺の好意を無にする気か!?」
 私は落ち着いて言い返した。
「私に向ける好意は、山岡に向けて下さい。私も山岡も、小隊長の部下の一人にすぎんのですから。同じ階級の者に部下を取りしきられて、部屋だけあてがわれる、そんな好意は受けたくありません」
 小隊長は拳を握りしめて黙っていたが、やにわに顔をゆがめ、せせら笑うように言った。
「成程、こいつはお前のこれか」
 言いながら小隊長は山岡を顧み、私に向かって左手の小指を立てた。朴念仁の私でも、これが情婦をさすことは知っている。私はこの瞬間、宮本という男に対し、激しい軽蔑の念を抱いた。こんな下衆な奴が、俺の同僚の上官なのか。
 私は落着き払って言った。
「それではこうしましょう。小隊長は私に、副小隊長室をくれる。その部屋の管理は、私に一切任せる。私の個室なんですから、その部屋のことは私に任せていただきたい」
 小隊長は私の真意を察したらしい。仕方がないという顔で答えた。
「わかった。あの部屋をお前の個室とする。部屋のことはお前に任せよう」
 私は言った。
「わかりました。では私の個室には、引き続き山岡を住まわせます」
 辺りの緊張が、不意に緩んだ気がした。小隊長はねじれたような笑いを浮かべた。
「お前の考える事は見えすいてるんだよ」
 小隊長は言い残して部屋を出て行った。私は山岡に言った。
「今迄通り、部屋に住んでてよろしい」
 山岡はぺこりと頭を下げた。
 山岡が出てゆくと、谷口が憤懣やる方なしといった顔で私に言った。
「全く言うに事欠いてあんなひどい事を言うのが小隊長だなんて情ないですよ」
 河村が谷口に言った。
「山岡はお前の身内だからな。頭に来るのももっともだ」
 谷口は尚も愚痴をこぼす。
「先だっても京子のために部屋を掘ることになった時、散々京子を罵るから弁護してやったら、余計に怒って先刻と同じ事を言ったんです。どこの世界に姪を妾にする奴がいるんだ。あれ以来もう小隊長には何を言っても無駄だと諦めてるんです」
「もしかして奴さん、自分にこれがいなかったから」
 と言いながら私は、先刻小隊長がしたと同じしぐさをした。
「それを言っちゃ、おしまいだ」
 河村が言う。
 その夜、私は夕飯後河村と話していた。
「ここでは、夜間哨戒は立てるのか?」
「当り前だろ。ここは前線中の前線なんだ」
 この晩は谷口班と酒井班が夜間哨戒であった。十三人で兵舎の周りを警戒する。一日二十四時間を朝六時から午後二時、午後二時から午後十時、午後十時から午前六時の三つに分け、二個班が組になって交代で付近の哨戒を行う。
「昔の軍では、小隊長っていうと、そりゃもう俺達下士官や兵とは格が全然違ったさ。俺達は何しろ召集令状一枚で集められて来たんだが、小隊長っていえば少尉だろ、相武台卒の、将校のはしくれだもんな」
「相武台……?」
「知らないのも無理無いな。陸軍士官学校が神奈川の相武台にあったんだよ。そこを出たって事は、つまり幹部候補生上がりだろ、俺達下積みとは大違いだ」
「幹部候補生か……」
「中には少しだが下士官上がりもいた。そういうのは見りゃすぐわかった。相武台から来たのは二十四、五の、まだ半分学生みたいなのだし、下士官上がりの方はもう、シベリア出兵から陸軍にいるような大ベテランの古参だからな。
 ま、面白いのは、准尉になるような下士官のいる所へ相武台から小隊長が来た場合だな。少尉は准尉より上だから当然少尉の方が上官なんだが、何しろ軍隊経験からすりゃ新兵と同じなんだから、実際日常の何のかのといった事は古参下士官がやってたんだ。少尉なんか飾り物だ」
「矢板も、もう十年ぐらい軍隊にいたらそうなってたかもな」
「そりゃどうかな。今の場合、むしろ俺の方が飾り物になってるがな」
「ははは……ところで、病院の事話してくれよ」
「病院のこと?」
 私は入院中の事や、復帰してくる途中での出来事を河村に話した。
「というような訳だ」
「復帰する途中に敵のジープぶっ飛ばすなんてお前らしいな」
「そうかな」
「自衛隊は我が隊とは基本的に没交渉だって聞いたことはあるがな」
「だから、それが、『車を走らす者の仁義』だっていうんだよ」
「仁義、か……」
 河村も感服している。
「ともかく、木村に抱きつかれた時は正直言って参った。あんな事は物心ついて初めてだ。本当に冷汗かいたぞ」
「この果報者。この女っ気のない所で俺達が悶々としてるというのに。自分の幸福を感謝すべきだぞ」
「いや、あの時は本当に参ったんだ。何しろ『男女七歳にして席を同じうせず』で育てられた四十男が二十も歳下の娘に抱きつかれた時の気持、想像できないかな」
「俺なら幸福の余り大空高く舞い上がるな」
「戦後派だな……」
 私は世代の断絶を感じて溜息をついた。
「女っていうと、」
 河村は私の耳元に口を寄せた。
「石田とか屋代とか若い連中がな、欲求不満で相当頭に来てるようだ」
「えっ……」
「ここへ来てから一層ひどくなった。考えてみると二ヵ月も女抜きだもんな……」
「連中が山岡に手を出す前に、何とか解決しなきゃならんな」
 腕時計を見ると十時を指していた。
「さて十時だ。哨戒に行くぞ」
 私は小隊長に、哨戒に出る旨を申告した。
「勝手に行って来い」
 小隊長はそう答えただけだった。
 私は懐中電灯と銃を持ち、谷口班と酒井班、総勢十四人(石川と酒井班の鶴岡は後方へ送られている)を連れて外へ出た。空は曇っている。
「谷口班、俺について来い。河原を哨戒する。酒井班、崖の上を哨戒しろ」
 私は兵舎の外で皆に言った。皆は頷いた。私達は二人か三人ずつ組んで哨戒に出た。
 前線どころか敵の真っ只中にいるというのに、不気味なほど何事もなく時間が過ぎ、やがて辺りを包んだ霧は明るみ、暁の兆が見えてきた。辺りは次第に明るくなってゆく。もう四時半頃かと思って時計を見ると、まだ三時五○分であった。北海道の朝は実に早い。
 午前六時になった。私は眠い目をこすりながら、辺りに散開している筈の部下を集めた。
「全員いるか?」
 と見ると、屋代がいない。私は不安になった。
「屋代がいないぞ。あいつを見た者はいるか」
 谷口が言った。
「確か夜半頃までは、私と一緒にいましたけど。それからは……」
 全員の間に恐れが走るのが感じられた。
「急いで探せ! 谷口、屋代と別れた場所を覚えてるか?」
「確か、あの、川の曲ってる辺りでした」
 谷口は河原を指差しながら答えた。私は叫んだ。
「河原を探せ!」
 河原の林の中を血眼になって探すこと数分、私は、薮の中に仰向けに倒れている屋代を発見した。私はそこに駆け寄った。
「おうい、いたぞ!」
 私の叫び声に、皆が集まってきた。私は屋代の体に手をかけた。温かい。生きている。外傷は……無い! ということは……?
 私の心から、先刻までの恐怖が消えると同時に、軽い怒りが起こってきた。私は彼の耳元で一喝した。
「こらあっ!! 起きろ!!」
 屋代はびくっとしたように見えた。彼は目を開いた。そして私の顔を見ると、反射的に体を固くした。
「あ、班長」
 まだ眠た気に言う彼に私は怒鳴った。
「哨戒中に寝る奴があるか、この馬鹿者!」
 誰かが笑ったようだった。そして次第に、屋代と私を除く全員の笑いに変わった。私は屋代を引っ立てると、兵舎へ戻った。
 兵舎の扉の前で、河村と部下達に会った。河村は私の部下の様子を見て言った。
「朝っぱらから何があったんだ?」
 私は全く笑わずに答えた。
「屋代の馬鹿が哨戒中に寝てたんだ」
 河村が呆れたように言った。
「いるんだよな、そういうのが各班に一人くらい」
 部屋へ戻った私達は、床に毛布を広げて三々五々眠りに就いた。屋代が毛布を広げようとしているのを見て私は命じた。
「お前は寝るな。昼飯まで、そこで気をつけしてろ。先刻あれだけ寝たんだからな」
 周りの何人かが、屋代を見ながら口元だけ笑っている。私は皆を見回して言った。
「笑い事じゃないぞ。敵の真ん中なんだからな。今後、哨戒中寝た奴はこの罰だ」
 徹夜の哨戒の疲れに、私はすぐ眠りに落ちた。
(2001.2.4)

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