釧路戦記

第十一章
 七月十八日の朝の事だ。私達の中隊は、南二一番川流域で、敵部隊の掃蕩作戦を行うことになった。中隊全体では重機十六挺、無反動砲八門を持っている。
 私達左翼部隊、吉川小隊と太刀川小隊は、三股から円朱別に抜ける一車線道を歩くこと四時間、左側に浅い沢のある所に着いた。正午だ。休憩になった。吉川小隊長が、小隊の皆に説明する。
「うちの小隊は二手に分れて、二三番川と二四番川を下る。
 矢板班と酒井班は二三番川に沿って下れ。河村班と古川班は、二四番川だ」
 何故だろう、私の班がいつも別動隊になるのは。ともかく出発準備を整えた。
 十五分後、私達は出発した。太刀川小隊の四個班のうち二個班、小林班と角田班が、私達と少しの間行動を共にした。彼等は、八八メートルの丘の手前で、左へ分れて二二番川に入っていった。私の班と酒井班は、八八メートルの丘を越えたところで、本隊と分れた。二三番川の浅い沢に入ってゆく。大体このように散開して、周りを隈なく見張りながら進む。
 岸本が手招きした。
「何かあったか」
「左前方に丸太の山があります」
 見ると確かに丸太の山がある。別に変わった物でもない。
「放っとけ」
「この前通った時は無かったんですよ」
 私は、殆ど無意識のうちに叫んだ。
「伏せろ!!」
 その直後、丸太の山から銃身が突き出すと、次々に火を吹き始めた。
 全く危い処だった。先月、哨戒に出てここを通過した岸本だったから、丸太の山が新たに出来ているという、ごく何でもない異変に気付くことができたのだ。もし見過ごしていたら、敵の銃火の方が恐らく早かったろう。そして戦死者を出していたろう。
 岸本は丸太の山に這い寄っていくと、やがて手榴弾を投げた。丸太の山の中で爆発が起こり、銃火は止んだ。私達は丸太の山に駆け寄った。丸太を何本も積んで前後を囲い、横にも短い丸太を積んだ陣地の中で、三人の敵兵が死んでいる。
 突然、前方から銃声が起こった。
「隠れろ!」
 私達は丸太の山の中や後ろに隠れた。銃声は左右からも起こってきた。弾丸が次々に丸太に喰い込む。私達は丸太の山の中に飛び込んだ。窮屈な空間を、次第に恐怖が支配してきた。
 長い長い時間が過ぎた――実際は数分だったが。銃声が止み、人の声が聞こえてきた。
「敵が来るぞ。手榴弾――もし敵が持ってればの話だが――投げられる前に始末しよう。重機を構えろ。脚を外して、三人で本体を支え、丸太すれすれに銃身を出せ。他の者は丸太の間から銃で狙え」
 重機が二挺、六人によって支えられた。私は、重機を構えている谷口と荒木に言った。
「敵が出てきたら撃て」
 何秒か後、二挺の重機が猛然と火を吹き出した。私も、丸太の隙間から銃身を突き出し、敵に向かって引鉄を引いた。
 丸太の山のすぐ近くで、激しい爆発が起こった。土くれが降る。石川が心細そうな声を出した。
「敵は砲か手榴弾持ってますよ……。これじゃ……」
 私は石川を叱りつけた。
「弱音を吐くな! 先に敵を全滅させればいいんだ!」
 右手の斜面から、敵が次々に駆け降りてくる。私達の銃火も一層激しさを増した。
「無反動砲でやってみるかな。屋代、弾丸をよこせ」
 私は無反動砲に霰弾を込め、丸太の上に砲尾を、外側を向くようにして載せた。周りに敵が集まって来る。殆ど水平にして発射した。
 近くの丘の中腹で爆発が起こった。何人もの兵が倒された。と、砲尾が向いていた側を銃で狙っていた桐野が驚きの声を上げた。
「火炎放射器!?」
 私は振り返った。砲の後ろの草地が数十メートルにわたって焼き払われ、十人ばかりの兵が、黒焦げになって死んでいる。屋代が言った。
「こりゃ面白い使い方だ」
 などと言っている間にも銃火は絶え間なく続く。しかし、その銃火も次第に散発的になってきた。この間に、また三発ばかり無反動砲の焼き打ちを喰わした。もうこれが主たる目的であった。
「敵が退却して行きます!」
 谷口が叫んだ。敵はもう殆ど撃ってこない。敵の姿が見えなくなったのを見届けてから、私達は丸太の山から出た。辺りには数十人の敵兵が死んでいる。四本、長く帯状に焼き払われている所があるのは無反動砲だ。
「さあ、突撃だ!」
 気のはやる酒井を制する。
「待て。我々の任務は掃蕩だ。徒らに深追いするのでなくて、一兵たりとも残さずに丁寧に片付けるのだ。
 よく調べろ。一兵たりとも生かしておくな。重機はここに残しておけ。荒木、見張れ」
 荒木を除く十四人は辺りに散開して、生き残っている兵を探した。この検査は重要だ。このような草原地帯では楽だが、森林地帯では手抜かりなく行わなければならない。
 生存者は一兵もなく、私達はまた丸太の山に集まった。私は双眼鏡で周囲をよく見回した。右手の沢の向こうにある林に何かありそうだ。
「谷口と西川、あの林を偵察して来い」
 二人が歩いて行ったと見る間に、右手の沢で激しい銃声が起こった。谷口はすぐに駆け戻ってきた。後から西川が、右足を引きずりながら走ってきた。谷口は息せき切って報告する。
「あの沢に、先刻退いた敵が集まってます!」
「そうか。よし、回り込もう!」
 私は、酒井に地図を見せながら言った。
「俺の班はこの丘の上へ行く。お前の班は、この丘の上へ行って、ここから重機で片付けろ。無反動砲は俺が持ってく」
 私達は今来た道を引返し、南の尾根に登った。沢の底に敵部隊の残党がいるのが解る。ここで酒井班と分れ、草の中を匍匐前進しながら進む。両肘と両膝で進むこの進み方は、一分間に約三十メートルしか進めないが、姿勢が低いから敵に発見されにくい。尾根に沿って大回りして、敵陣をすぐ見おろす丘の上に着いた。私は号令をかけた。
「射て――っ」
 重機が火を吹く。向こうの丘の上の酒井班も応じた。敵陣はたちまち、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。慌てて銃を執るのはまだ良い方で、中には取乱して逃げ惑いながら銃火の餌食になってゆく兵もいる。一時間前の戦闘で、我々を潰した訳でもないのに、すっかり気を緩めてしまっている。こんな兵士の集まりが、我々に勝てる筈がない。私達は、次々に兵を撃ち倒した。
 と、右側の木立の中から、ばらばらと敵が飛び出してきた。やはりこの木立を睨んだのは正しかったのだ。しかし、敵の前に飛び出してきてから弾丸を込めているような兵士なぞ、所詮我々の敵ではない。次々に倒されてゆき、私達のいる所まで数十メートルにまで迫った何人かも、先頭の班長らしい男を倒されると、算を乱して逃げ始めた。結局、一人残らず銃火の餌食となって果てたのだった。
 さて本陣の敵は、やがて防空壕のような所へ皆逃げ込んだ。
「あんな所へ逃げ込んで助かると思ってるのかね」
 誰かが言った。むろん助かる訳がない。銃火が止んだのを見計らって、私達は沢へ降りて行った。防空壕はすぐ近くにある。入り口は一つだけで、掘り下げてあり、三十センチ角くらいの空気抜きの穴がある。
「こんな奴等を葬るのに、手榴弾は勿体無いな。……お、あったぞ」
 私はすぐ近くに、石油缶を見つけた。開けて指を入れてみると、中身はガソリンだ。こんな物を置いていくとは頭が足りない。すぐ近くに、手の取れたバケツがあった。
「中村、ちょっと手を貸してくれ。これを、この中に入れるんだ」
「はい」
 ガソリンをバケツに満たし、それを中村に持たせた。私は壕の空気穴の傍にバケツを置かせて言った。
「俺がこれに火をつけるから、お前はこれを引っくり返せ。おい、石川、お前は入り口を見張ってろ。行くぞ」
 私はマッチを擦った。中村はバケツの底に手をかけている。私は、燃えているマッチをバケツの中に落とした。火柱が立ち上る……その瞬間、バケツは転がった。燃えるガソリンは、空気穴から壕の中へ注ぎ込まれた。空気穴から、黒煙と共に、敵兵の死の叫びが立ち昇ってきた。火だるまになった敵兵が一人、入り口から出てきたが、踏み段に倒れ伏すと動かなくなった。人肉の焼ける悪臭が、油の燃える臭いと一緒になって辺りに漂った。私は、有りったけのガソリンを空気穴から壕の中へ注ぎ込んだ。炎熱が空気穴から吹き上げてきた。
 やがて壕の中は静かになった。煙は薄れた。石川が中に入った。私と屋代と谷口が続いた。中の有様は、私の目にも酸鼻極まるものであった。狭い壕の中は、十数人もの、真っ黒焦げになった焼死体で一杯であった。隅の方では、まだ何人かの兵が生きていた。皆、大火傷を負って、衣服がまだくすぶっている。私は銃剣を抜いて、一人ずつ刺殺していった。石川と屋代は、只黙って立ちすくんでいた。谷口だけは、死体を一つずつ引っくり返して、生死を確かめていた。
「さ、出よう」
 私は皆に呼びかけた。石川と屋代は、押し黙ったまま私を見つめている。あの剽軽な屋代さえもが、真剣なまなざしで私を見つめている。私はたじろいだ。しかし、勇気を鼓舞して死体を踏み越え、入口に向かった。私はすれ違いざまに石川の目を見た。その目には明らかに抗議の表情があった。
 外へ出ると、そこには酒井班の者もいた。外にいた部下から事の次第を聞いたのだろう、何人かは黙って私を見つめている。その目に現れた感情は、明らかに石川と同じであった。しかし私は、今度はたじろがなかった、七−八人のまなざしを一身に浴びても。銃剣の血を草で拭い、腰のさやに納めると、壕の入り口を振り返った。谷口と屋代が出てきた。
「おい、石川は何をしてる?」
 屋代の目に負けるまいと、私はいつになく声を荒げた。
 谷口は答えた。
「死体を調べてます」
 私は壕の入り口に向かって怒鳴った。
「おい、石川! 早くしろ!」
 返事がない。私は怒りを感じた。足音も荒く踏み段を降り、壕に入った。石川は、壕の隅の方に跪いている。私はつかつかと歩み寄り一喝した。
「何をしてるか!!」
 石川は振り返った。呟くような声で言った。
「ああまでしなくたって……」
 私は語気荒く石川に詰め寄った。
「何だあ!?」
 石川は声を高めた。
「ああまでしなくたっていいじゃないですか! ガソリンだけならまだしも、それで死にかかってるのに、一人ずつ止めを刺さなくたって……そうだ、班長は、人殺しが好きなんだ! 自分の手で人を殺すのが……」
 私は憤怒を抑え切れず、石川の襟首を掴み上げた。
「ふざけるな!! 俺達は今、こいつらと戦争をしてるんだぞ!! こんな奴等に、女みたいな情なんか掛けるんじゃない!! そんな考えは今すぐ捨てるんだ!!
 俺が、お前が、今何をしているか知ってるのか!? 戦争だぞ!! 俺もお前も、兵士なんだ!! 軍人なんだ!! 軍人が、戦争の最中に、民間人じみた考えなんか持つんじゃない!! 俺達には、ただ、敵を滅ぼすという唯一最大の使命があるだけだ!! それに背く奴は敵も同じだ!!
 俺が受けた命令は、俺がお前に下した命令は、できる限り多くの敵を、確実に殺すことだ!! それを妨げる奴、それに背く奴は敵と見倣す!! お前は敵だ!!」
 散々喚き散らし、すっかり声を嗄らした私は、石川を引っ張って外へ連れ出した。私は本当に憤激して、見境を失っていたらしい。十四人を前に一喝した。
「俺のした事に抗議する奴は俺の前に並べ!! その連中は敵だ、だから処刑する!! 他の者に命令する!! 俺の前に並んだ奴等を射殺しろ!!」
 皆が震え上がるのがわかった。
「石川、お前のせいだぞ」
 鶴岡が石川に言った。私は鶴岡に銃を突きつけた。
「お前は俺に異議があるのか!?」
 鶴岡は慌てて弁解する。
「ち、違いますよ。僕は、矢板班長に異議はありません、ありませんったら!」
 息詰まる沈黙が流れた。皆の心臓の鼓動さえもが聞こえるかと思われた。
「まあいい。今は急がねばならん。皆に言っとくが変な娑婆っ気は起こすな。人情は任務遂行の妨げになる事が多いから。
 出発だ」
(2001.2.2)

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