岩倉宮物語

第九章
 少将の捜索に当たっている尚侍から、少将に関する報告は来ないかと、一日千秋の思いで待ち続けるうちに、何の報もないまま秋は終わり、十月は過ぎて、十一月にもなった。月日の流れるうちに、高松殿に生まれた二人の子供はすくすくと生長し、七ヶ月の太郎は一人で坐っていられるようになったし、喜怒哀楽の感情も豊かになった。こうなると愛おしさはいや増しに増して、太郎と一緒でないと夜も日も明けない気持になる。そんな時に、私の本当の長男である前東宮を、大弐の母に託して京からいずこへともなく去らせたのは、丁度今の太郎位の時だった、と思い出すと、私の知らないどこかの空の下で生きているに違いない本当の長男――もうすぐ四歳になる――の事が思い出されて、どう仕様もなく胸が痛むのだった。と同時に、今の太郎と同じ位の東宮、帝が最後迄自分自身の子だと信じ込み続けていた東宮が、帝の前から姿を消した時、しかも帝に対しては東宮は死んだと偽られたあの時、帝がどれ程の打撃を受けたかが、観念的な考えでなくて現実に肌身に感じられるようになり、そのような痛烈な復讐を成し遂げた事に対する残虐な快感に酔うのだった。本当の長男を思う時の私の胸の痛みは、長男はきっとどこかの空の下で生きているという一縷の望みによって、幾分かは和らげられる。しかし帝には、東宮が生きている望みは皆無、私の策謀によって粉砕されている。一切の望みが断たれる苦しみ、私が四年前に性覚を見看った時に味わったあの筆舌に尽くし難い苦しみと悲しみとを、私は一度ならず二度迄も帝に味わわせる事ができた。あの後引き続いて第三、第四の策謀を弄し、帝に立ち直る暇を与えずに責め苛み続けたならば、今頃帝は心神喪失に陥って、帝位を投げ出していたかも知れない。その方が良かったのかどうか、それはまだ何とも言えない。
 それはともかく、ここにもう一人、この世に新たな生を享けた子供がいる。八月に出奔し、前蔵人少将の許へ走った祐子が、少し早いが十一月初めに女の子を出産したのだ。母の胎にあるうちから、不義密通の子という暗い運命を負っていた子ではあったが(前東宮も二の宮も、遡れば私もだ、ただ公にそうと知られるか否かの差でしかないが、その差は決して小さくない)、この子の誕生によって事態が幾らか改善されたのは、疑いのない事実であった。
 まず内大臣が、孫可愛さに祐子の勘当を解いた。年寄りというものが、孫というものをどのように見ているか、それは私も日頃高松権大納言夫妻を見ているからわかるが、孫の誕生を聞いた途端に祐子の勘当を解いた内大臣の話を聞くと、さもありなん、と思う。
 その内大臣に帝が、祝いの品々を贈った。帝の考えは今一つわからないのだが、生まれた子には罪はない、というような事を考えたのだろうか。だとすれば帝の度量も、まだまだ見捨てたものでもない。ともあれ、祐子の出産を帝が祝った事で、それまで帝を憚って前蔵人少将からわざと距離を置いていた人々が、我勝ちに前蔵人少将の別荘へと、祝いに駈けつける。七日目には帝は、前蔵人少将の官を復し、殿上停止を解く事を決定した。
 翌日、官を復された蔵人少将が参内した。私が蔵人少将の姿を見るのは、七月に式部卿宮邸を訪れて以来四ヶ月振りだが、別人かと思う程に変わっていた。高級貴族の二代目という血筋から来る甘さ、脆さ、或いは生来の華やかさと裏腹な軽佻浮薄さ、才気と隣り合わせた生意気さといった物がかなり影をひそめ、心身両面にわたる苦労を経験して来た人間に相応しい穏かな落着きと、どん底を見て来た人間だけが持ち得る不屈不撓の勁さを併せ持った、一人の大人、男が出現していた。心身の苦悩のために面やつれしているのも、却って内面外面共に贅肉を殺ぎ落としたようだし、何よりも目の光が変わった。薄ぼんやりしたような柔弱さはなくなり、きらりと輝くような鋭さが備わった。ここ迄変身した蔵人少将なら、今後も私の友人として付き合ってゆくに値するだろう――四ヶ月も謹慎して全然変わらないような人間だったら、これはもう人間に列するにも値しないが。
 帝は早速、蔵人少将を召した。
「そなたも大変だったな、蔵人少将。私も、一時の怒りに駆られて、随分厳しい処罰をしたが」
「いえ、当然の事です。綺羅少将には、弁解しようもない仕打を致しました。綺羅の失踪は、全て私のせいです。邸に籠っております間、京中を騒がせたお詫びに、出家をも考えたのですが、祐子や、これから生まれる子の事を思うと踏み切れず、今日迄来ました。勝手なようですが、今の私には、祐子を唯一人の人として、ひたすらに尽くす事が、綺羅への詫びになるかと思っております。もう決して、馬鹿な振舞は致しません」
 ふむ、よく言ったぞ。そうと本当に思い定めているのなら、私としても一安心だ。結果として一人の人間を更生させる事が出来たのだから、少将の失踪というこの事件は、決して無駄ではなかったのだ。
「そなたも反省しているようだ。そなたのような恵まれた人が、一時、世間や友人に爪弾きにされ、苦しい思いをした事だろう。ともかく、これからは三の君と仲良くやる事だ。内大臣や右大将にも、私からよく言っておこう」
 帝の声が聞こえた。帝の言葉に難癖をつけるならば、恵まれ過ぎた人間には、一度このような大きな挫折を経験する事が必要なのだ。恵まれ過ぎ、挫折を知らない、その結果人間として甚だ未熟で周りの人間にとっては鼻持ちならぬ、それが――帝なのだ。
 退出した蔵人少将は、信孝や公晴と、再会を喜んで話に花を咲かせているが、私に対しては妙に屈託し、私の目を避けるような素振りをする。やはり私に対して、何か隠している事、後ろめたい事があるのだ。それが何なのかを、今追求するのは適切か否か。少将の失踪以前の状況、失踪の動機について、確かに不審があり、それの解明には蔵人少将が何らかの鍵を握っているに違いないのだが、今最も重要な事はそれではない。少将が今、どこにいるか、それが一番重要だ。蔵人少将を糾問して、それに結びつく有力な手掛りが得られるかどうか、それはむしろ否とすべきであろう。
 二三日後、帝は私を召して言った。
「こういう事を言うと、また何かと諌言したがるだろうとは思うんだが……」
 また宿痾の発作が起こったか? 帝が諌言される気でいるなら、思う存分やってやるぞ、と手ぐすね引いて待ち構えるところへ、
「もうそろそろ、尚侍を参内させたいと思うのだ」
 それ来たぞ、どう言って顔色をなくさせてやるか。帝は、ぼそぼそと続ける。
「……別に写経の功徳を信じない訳じゃないが、綺羅が失踪してもう四月に近く、尚侍が写経を始めてからでも二月が過ぎた。それなのに綺羅の消息は今以て掴めない。これはもう、……最悪の事態も想定した方が……その……そうする必要も、……だから、いや、別に、綺羅を諦めた訳じゃないぞ、ただ、だから、そのために尚侍を、いつ迄も籠らせておくのはどうか、と思うのだ。それにそう、三の君も収まる所へ収まって、蔵人少将も還昇した事だし、ここらでもうそろそろ、だな……」
 蔵人少将が還昇したから、とは、いい口実を考え出したものだ。しかし、今ここで尚侍を参内させられたら、尚侍の立つ瀬がない。だから何としても、尚侍の参内を阻止しなければならないのだ。
「主上が尚侍の参内をと仰せられるお気持は、私にも充分わかりますが、しかし主上の仰せとは云え、志半ばで打ち切っての参内となれば、さぞかし尚侍には悔いの残る事となりましょう」
 ふと思いついた事がある。
「悔いを残したまま再び参内し、入内の日を待つ位なら……と尚侍がお考えになったら、どうなるでしょうか」
 すると帝は、さっと顔色を変えた。
「そう、その事だ。……何でも尚侍は昔、意に沿わぬ結婚を強いられそうになって、入水を図ったというではないか。だから尚侍が、もし何かとんでもない事でもし出かしはしないか、それが心配なんだ、堀川殿に一人で籠らせていては。だから後宮へ召して、東宮の目の届く所にいさせた方が安心ではないか、と思うのだ」
 早口で言う帝に、私は内心、しまった、と思った。何とかうまく反論しよう、と思ったところへ、帝は、
「実は昨日東宮に会ったら、東宮が、尚侍がいなくて随分寂しそうな様子だったから、そんなに寂しそうにしているのは見るに堪えないから、早目に尚侍を召そう、と言ったのだ。そうしたら東宮は、そんな事はない、尚侍の願掛けの方が大切だと、妙に力んでいたのだが」
 これだから女子供は! と私は舌打ちしたくなった。この危急存亡の時に、自分の感情を殺し切れなくてどうする。
 私が顔を歪めたのに気付いたかどうか、帝は幾分訝るような調子で言った。
「それに、何か腑に落ちない事がある。写経二十巻というが、毎日朝から晩まで書いていて、二ヶ月かかってまだ終わらない、なんて事があるものだろうか。心を鎮めて一字一句、丁寧に書くとしても、少し長過ぎるのではないかな」
 私はどきりとした。少将の探索が長期に亘れば、いつかこうなる惧れはなしとしなかったのだが、いよいよ現実にそう言われてみると、確かに由々しき問題ではある。
「さあ、そればかりは、今何巻まで書かれた、あと何日で終わる御予定、などと聞き出して来る訳にも参りませんから、黙ってお待ちになるより他は……」
 動揺を抑えつつ言い繕おうとする私に、帝は幾分眉を寄せた。
「そなた、尚侍が参内して来なければいい、と思っているんじゃないのか?」
 私は精一杯嘯いた。
「そういう訳では、ございませんが……」
 二言三言話して御前を退出すると、帝の目を盗んで梨壷へ行った。
「帥宮? 何か用事?」
 相変わらずな東宮に、私は開口一番、
「東宮、尚侍がおられなくてお寂しいという御様子を、少しでも主上にお見せになってはならないと、あれ程申したではありませんか」
と強く決めつけてやると、
「だあってぇ……」
 甘ったれた声で言っては口を尖らす。
「まあ、今更仕方ない事です。それもさる事ながら、写経二十巻というのもそろそろ危くなって来ましたよ。毎日朝から晩まで書いて、二ヶ月かかってまだ終わらないのは長過ぎやしないかと、主上が仰せられたのです」
 東宮は少し真面目になった。
「長過ぎるって? ねえ、写経って普通、一巻書くのに何日位かかるものなの?」
「そう尋ねられても、やった事がないもので何とも。ただ、経によって違うとは思いますが」
「……何だか頼りない話ね」
 東宮は、僅かに軽蔑したような色を見せた。勝手な事を言うな、それなら二ヶ月間時間稼ぎのできる言訳を自分で考えてみろ、と言いたくなったのを我慢して、話を進めた。
「そういう訳ですから、この際尚侍を呼び戻して、次の作戦を立て直した方が良いかも知れません」
「呼び戻して、参内させるの?」
「いや、それも難しい。参内させても、根本的な解決には何もなっていません。大体もう尚侍は、髪を切ってしまっているし、いずれ入内となったら、どうにもなりません」
「じゃ、どうするのよ」
 私はじろりと東宮を睨んだ。
「東宮、これは誰に関わる問題か、お考えになった事がありますか。第一に尚侍なのは申すに及ばないとして、第二に東宮御自身に関わる問題なのですよ。それを先頃から黙って聞いていれば、何ですか、御自分では何も案を出さないで、一から十まで私に頼り切り、それでいて私の提案には難癖をつける。挙句の果てには主上につけ入る隙をお与えになる。もし東宮が本気で事に当たられないのなら、私はいつでも手を引きますよ、この件から。有体に申せば私は、少将とは仲が良かったから、少将が他人に言えない秘密を抱えて苦境に立ち至っているのに、一肌脱いでやろうと思って、少将の秘密を聞き出したりしたのです。尚侍はまだしも、東宮がどうなろうが、私にとっては痛くも痒くもないんですよ。それに私は弘徽殿女御の縁の者、私が二の宮を次期東宮にお据えしようと企んで、貴女を東宮位からお降ろしする陰謀に便乗しているなどと、痛くもない腹を探られるのは御免ですからね」
 東宮はふて腐れて、口をへの字に結んだまま黙りこくっている。私は立ち上がりながら言った。
「私を憎らしいとお思いなら、尚侍をどうすればいいか、私と競う積りで一晩考えて御覧なさい。明日また、参ります」
 東宮は返事もせず、ぷいと横を向いた。どうも女というものは、こういう作戦の相棒には使えない。一時の感情で寝返るは(綾子)、どうしようもなく甘いは無謀な事をして歩調を乱すは(晴子)、自分の感情を殺し切れないは(東宮)、使えそうなのは土壇場で予想しない行動に走るし(大弐)。
 実は私は、尚侍を呼び戻す段取りについて、そこそこの線までは考えてあったのだが、全く他人任せで自分で考えようとしない東宮にむかっ腹を立てて、言わずに出て来てしまったのだ。それは少し短慮だったかも知れないが、これも東宮の試練の一つだ。東宮がこれで、少しは主体的に物事を考えるようになれば、将来のためにも益する所なしとしないだろう。
 翌朝、帝が物忌に服している隙を突いて昭陽舎へ行き、東宮に会った。
「東宮、一晩お考えになって、如何でしたか」
 私が尋ねると、東宮は打って変って上機嫌で、得々として答えた。
「浮かんだわよ、名案が」
 東宮が名案だなどと言っても、話半分と思った方がいいだろうが、そんな様子はおくびにも出さず、顔を引き締めて身を乗り出した。
「お伺いしましょう」
 東宮は得意気に胸を張った。
「いいわ。えっとね、私と綺羅が恋仲だった事にするのよ」
「成程?」
「でも私は東宮だし、綺羅には妻がいて、しかもその妻は他の男と仲良くしてる。それで綺羅は絶望して、失踪した事にするのよ。でも、妻の三の君は収まる所に収まったし、私への恋心已み難く、一目私に会ってから出家しようと、都に戻って来て発見される。戻って来るのは勿論、尚侍よ。(私は頷いた。)丁度、時は嵐で、私はここを抜け出して、尚侍の許に走り、一緒に死にましょうと、物語のような場面を演じるのよ。勿論、本当に死んだら元も子もないから、ちゃんと五月や帥宮と段取りして、止めて貰うけど。ここ迄やれば、三の君と蔵人少将みたいに非難されないまま、すんなりと仲が認められるんじゃない? 私は勘当の代りに東宮を廃されると思うけど、それこそ願ったりだし、尚侍も精々、殿上を停められる位で済むと思うわ。どう?」
 私は何遍も深く頷いた。
「尚侍を少将として出現させる段取りとしては、満点と申してもいいですね。ただ問題は、尚侍の代りをどうするか、という事です。近いうちに尚侍が少将として戻って来て、東宮と結婚すると言って二人で一騒ぎすれば、暫くはまた時間稼ぎが出来ますが、その先は、どうなりますか。正直に申せば私は、そこの所を考えあぐねているのです」
 私に評価されて満更でもないのか、東宮は私の懸念なぞどこ吹く風で、
「この際しょうがないわ、尚侍を男に戻せるだけでも」
 この東宮、自分が尚侍と結婚できれば事足れり、とでも思っているのではあるまいな。私にとっては尚侍より、むしろ少将の方が大事なのだが、それを別にしても、作戦に着手したからには最後まで責任を持って最善を尽くす、という自覚が欠落しているのではないか。しかしそう言って東宮を責めても、鮮やかな妙案が東宮の頭から出て来るとは思えない。暫く考えた末に、私は言った。
「わかりました。その線で行ってみましょう。駄目でもともと、時間稼ぎが出来れば上出来ですよ」
「じゃ、今からすぐ、尚侍に御文を書くわね」
 東宮は筆を取り、尚侍に宛てた文を書き始めた。
 東宮の文を預ると、私はすぐ退出し、清行に東宮の文を事づけた。
「宇治の別業、知っているな。あそこに尚侍がおられる筈だから」
「承知仕りました」
 数日前東宮が、浮舟の投身の話を読んで、それに影響を受けたのか、少将はどこかの川に身投げしたのではないか、と言い出したのだ。それで、考えられる全ての可能性を追求する一環として、三日程前から尚侍を宇治の別業に逗留させ、それらしい水死体が上がってはいないか、情報を集めさせているのだった。
・ ・ ・
 その夜、もう寝ようかと夜着に着替えている所へ、伊勢が来た。
「宮様、清行さんが、只今戻りまして、お目通りを願い出てございます」
「清行? わかった。ここへ通してくれ」
「かしこまりました」
 夜着の上から袍だけを着ると程なく、清行が簀子に現れて平伏した。
「只今、戻りました」
「うむ、御苦労。もっと近う寄れ」
 清行は部屋に入って来ると、私の前に跪いて、懐から一通の文を取り出した。
「尚侍様から、御文をお預りしております」
「うむ」
 差し出した文を取り、開いて一瞥した瞬間、私の目は文面に釘付けになった。
〈姉上を、発見致しました〉
 少将が、発見された! どんな状態でか、俗体か、法体か、それとも!? 私は早鐘を打ち始めた胸を鎮めようと努めながら、続きを読んだ。
〈都を出奔して宇治の地へ至り、当地の僧の庵に寄居して、今日まで暮らしていたそうです。すっかり田舎の女になり切っていて、私の目にも一見して綺羅少将には見えませんでした。田舎暮らしのせいで少し痩せてはいますが、至って元気で、私も安心致しました。
 姉上が無事でした以上、早急に入れ替りに着手しようと思います。そのための御指図を早急に頂きとうございます。また、この事を一刻も早く東宮に申し上げて、御安心させて差し上げて下さい〉
 よし、こうなったら私も、早急に作戦に着手せねばならぬ。私は文から顔を上げた。
「清行、済まないが明朝、また宇治へ行ってくれるか。詳しい指示は明朝与えるが」
「は。明朝と言わず今夜にでも、参ります」
 清行のこの忠勤ぶりは大いに有難いのだが、
「いや、明朝でいい。今夜はゆっくり、休んでくれ」
「ははっ」
 清行を退らせてから、明日の段取りを考えた。明日のうちに少将を、堀川殿へ入らせる積りではあるが、その前に一度私だけで会って、参内してからの作戦を授けなければならない。参内してからの作戦、それがまた少し問題ではあるのだが。髢を作らせると尚侍には言ったものの、今から作らせて間に合う物ではない。そんな弥縫策より、もっと巧妙な策はないものか。帝が尚侍を、一日も早く参内させようと焦っているのは、尚侍が何かとんでもない事をし出かさないか、と心配しているからだ。それを逆手に取るような策は……?
 翌朝ごく早いうちに私は起きて、清行に指図を与えた。
「急いで宇治の別業へ行くんだ。そこに、尚侍と瓜二つの、身なりは庶民そのものの女がいる筈だから、尚侍と一緒にその女を連れて、岩倉の別荘へ来るのだ。車があればいいが、もし無かったら、馬の後ろにでも乗せて来るんだな」
「承知仕りました」
 既に旅装を整えていた清行は、私の指図を受けるとすぐ、馬に乗って出て行った。それを見送ってから、五月に宛てて文を書いた。
〈少将が無事、発見されました。今夜堀川殿に、田舎女の姿でお帰りになる筈ですから、尚侍の御装束を用意しておいて下さい。明日以降の段取りについては、少将がお帰りになる時にお教えします。尚、この文を受け取っても、少将が無事発見された事は迂滑に口外しないように〉
 書いた文は良助に、堀川殿の五月という女房に渡すようにと言い含めて託した。良助が出て行ってから、私はやおら参内し、昭陽舎へ赴いた。
「東宮、朗報ですよ。お聞きになっても、余り喜んで騒いだりなさらないで下さい」
「朗報って!?」
 目を輝かせ身を乗り出す東宮に、私は小声で言った。
「少将が無事、発見されました。今、宇治の別業に、尚侍と一緒にいるそうです」
「見つかったの!? 綺羅が!?」
「しーっ!」
 驚きと喜びに叫び出しそうになった東宮を、私は手で制した。東宮は口を噤み、それでも喜びを抑え切れないのか、むんずと私を抱きしめた。
 ややあって東宮は私を見上げ、囁くように尋ねた。
「それで、いつ帰って来るの、綺羅と尚侍は」
「二人とも今日中に、都へ帰って来ますよ。まず二人とも、岩倉にある私の別荘に来て頂き、今後の段取りを話し合ってから、少将は今夜中に、堀川殿へお帰り頂きます。そして近いうちに、尚侍として出仕して頂きます。尚侍の方は、宮中の作法や少将の職務などを勉強して頂かなければなりませんから、公の場に姿を現すのはもう一月はかかるでしょうか。今暫く、御辛抱頂かないと」
「……わかったわ」
 尚侍に会えるのがまだまだ先の事だと知らされて、東宮の嬉しさも半減したようだ。
 昼過ぎに退出し、朝参内する時に乗って来た地味な網代車で、雪道を分けて岩倉の別荘へ行った。夏は時々避暑に来る岩倉の別荘も、冬来るのは初めてだ。冬になると、寒さが一層身に泌みる。ここに一月も尚侍を置いておくのはどんなものか。やはり、灯台下暗し、私の本邸に置いておく方がいいだろう。
 日が傾く頃、数人の供人を伴った二騎の馬が、門を入って来た。と見るうちに、清行が簀子の前に現れた。
「若殿様、只今着きました。尚侍様と今一方を、お連れ致しました」
「うむ、御苦労。暫く休むよう、他の者にも申し伝えよ」
 別荘の管理人に命じて、供人達に粥を出させている間に、尚侍と少将を呼んだ。すぐに、冬直衣をすっきりと着こなした尚侍に続いて、粗末な藍染の小袖に褶を纏い、市女笠にむしの垂布を被った少将が現れた。二人は並んで坐ると、深々と平伏した。こう迄見事に、庶民の女になり切ってしまった少将を、男姿の貴族のままでいると思い込んでいた人々が探し出せなかったのも無理はない。
「面をお上げなさい」
 二人は顔を上げ、少将は笠を取った。こうして見較べてみると、本当に瓜二つだ。男姿の方が少将で、女姿の方が尚侍だと言われても、全然わからない。ただ、庶民の間に身を置いていた期間の長い少将の方が、尚侍よりももっと肉を殺ぎ落としたように見え、その一方で尚侍の方は、以前の男装の少将に比べ、一層の男らしさを具えているように感じられる。
「少将、久し振りですね。言いたい事はないではないが、今はとにかく、貴方が無事に戻って、安心しましたよ」
 少将は幾分俯いて、
「何も申し上げずに姿を消した私を、どれ程か友達甲斐のない者とお思いでしたでしょうに、私と弟のためにこれ程迄にお骨折り頂いて、何とお礼申し上げたら良いか……」
と言いながら口籠る。
「それはもう、過ぎた事です。今は何より、貴女達の入れ替りを無事に済ませ、貴女を女として世に蘇らせる事、それが第一です。尚侍の方は姿形だけなら、明日にでも少将として出仕されるのに、何ら支障はありませんが、貴女の御髪が女として通用する程伸びるには、何年かかるかわかりません、そんなに待つ訳には参りません。その段取りなどを、これから話し合って行きましょう。
 まあ取り敢えず、宇治から雪道をお越しになって、寒かったでしょう、粥を作らせますから、ゆっくり暖まって下さい、火桶もありますし」
 私も含めて三人分の、粥と羹を部屋へ運ばせ、火桶と衾も運び込んだ。二人が人心地つき、憩いできたところで、私は話を始めた。
「今後の段取りです。まず少将は、今日中に堀川殿へお帰り下さい。五月に装束を用意させてありますから、それに着替えて、尚侍になり済ますのです。その時御髪は、表着に着籠めて、短くなった事を他人に悟られないようにして下さい。そのうちに主上のお召しがあるでしょうから、そうなったら五月を伴って参内して下さい。但し、参内する時もした後も、喜び勇んで、なんて様子を見せてはいけませんよ。再三のお召しに、不本意ながら志を折って参内した、という雰囲気を作るのです。東宮もそれを感じて、少将をお召しにならないまま、夜を待ちます。夜になったら、尚侍が男姿に戻られる時に下ろした御髪、言い忘れましたが五月が持っていますから、参内する時にそれを、他人に見せないように桐壷へ持ち込みます。それを取り出して、今しも少将御自身が髪を下ろされたように装うのです。そこへ東宮がおいでになって、少将が髪を下ろされたのを御覧になり、慌てて主上にお知らせなさる。主上の事ですから、縦え御物忌を犯してでも、桐壷へ駈けつけて来られるでしょう。そこで、何故こんな事をと問い詰められたら、自分には唯一人思う人がいる、その人への思い叶わず入内する位なら尼になる、否、命をも断つ、と言ってやるのです。それは誰か、いつ会ったかと問い質されたら、去年の夏、死を覚悟して嵯峨野へ赴いた時に、命を救われた公達だ、と言ってやります。紫水晶の数珠を頂いた、と言ってやってもいいでしょう。そこ迄言えば、主上はそれが御自分だと思い当られる筈、しかし、そうだとは仰せられないでしょうから、どう出られるか、一つ拝見させて頂きましょう。何にしても、貴女がどこ迄うまく演じ切れるか、それにかかっていますよ」
 少将は何度も頷きながら聞き入っている。
「私はいつ頃、参内できるのですか」
 尚侍が尋ねる。
「貴方の方は、少将として出仕しても不都合のないように、宮中の礼式や少将の職務などを勉強して頂かなければなりませんから、もう暫く先ですね。一月か二月は、私の邸かここに留まって頂く積りですが、宜しいですか」
「わかりました。誰にも不審に思われずに入れ替るためには、今暫く参内が延びるのも已むを得ません」
 日が暮れた頃、私達三人は牛車に乗り、二騎と数人の供人を伴って、都へ向かった。車の中で三人、火桶を囲んで坐り、手を焙りながら、私は少将に尋ねた。
「今更どうでもいいような事だとは思いますが、どうして私にも相談せずに失踪されたのか、それを聞かせて頂きたいのです」
 すると少将は首を竦め、何とも少将らしくなく口籠りながら、
「そ、それが……余りにも馬鹿々々しい事なんです。あの……どうか、お笑いにならないで下さい。実は……」
と前置きして話す事には、
「蔵人少将と膝を詰めて話し合おうとしたあの宿直の夜、蔵人少将は何をどう思い詰めていたのか、私の言う事も聞こうとせずに挑みかかって来たのです」
 やはり蔵人少将は、少将が自分の秘密を知っていると悟って、口封じを図ったのか。
「挑みかかって来た、とは、頭を力任せに一撃して人事不省に陥らせようというような、そんなやり方ですか」
 少将は首を振った。
「いいえ、ただもう無理矢理、唇をくっ付けて来たので……丁度そこへ、上野宮様が宿所を訪ねて来られたので、蔵人少将もそれ以上の事はできなくて、私は命からがら逃げ出したのです」
 私は自分の耳が信じられなかった。つまり何だ、少将は、蔵人少将に唇を奪われて、それで姿を晦ましたと言うのか!?
「そんな事で、失踪されたのですか!?」
 驚いて訊ねると、少将は一層赤面した。
「……実は、蔵人少将と祐姫が逢っているのを見た時、二人は唇を合わせていたのです。ですから……つまり……男と女がそれをすると子供が出来るんだと思って……蔵人少将とそれをやってしまったものですから、これはもう、私にも……と……」
 もし立ち話をしていたら、間違いなく私はずっこけていただろう。十七歳の既婚の女が、接吻で妊娠すると信じていて、自ら妊娠したと誤解して失踪したなど、信じろと言われても信じられるものではない。いや全く、「事実は小説よりも奇なり」を地で行く話だ。私は顔中の筋がひくつくのを感じつつ、辛うじて心を鎮めて尋ねた。
「どうしてその後すぐ、そんな事があったと私に打ち明けて下さらなかったのです。唇を合わせて子供が出来るなんて、そんな馬鹿な事がないと、私から聞いてさえいれば、失踪などしなくても済んだ筈でしょうに」
「だって……そんな事……」
 少将は口籠りながら俯いた。
「で、御子が出来てしまったと思い込んで、これをいつ迄も隠し通せるものでもない、いつか御自分が女である事が天下に露見してしまう、と思い詰めて失踪された、という訳ですか」
「……はい」
 何とも形容し難い雰囲気が、車の中に流れた。俯いている少将を、尚侍は無知な姉を憐れむような目で見ている。
「まあ、誰でも初めは、何も知らないのです。そのうち、昔はこんな事もあったものだと、思い出して笑い話にする事も出来るようになりますよ」
 少将は呟いた。
「……そうかも知れませんね」
 やがて車は、堀川殿の裏門に着いた。車から降りる少将に、私は小声で言った。
「明日以降の段取りは、宜しいですね。今夜から、貴方は正五位上右近少将藤原雅信ではなく、従三位尚侍藤原 子ですよ」
「わかっています」
 少将いや尚侍は、きっぱりと答えた。
 尚侍を堀川殿で降ろしてから、私は車を本邸へ向けた。管理人には尚侍改め少将を、四十五日間の方違えのため本邸に逗留する客人であると言っておいた。生活の本拠地を高松殿に移した後も、高松殿に連れ込めない人物を匿っておくのに、この本邸は実に貴重だ。少将の生活に不便しないよう準備を整えてから、私は高松殿へ帰った。私を黒幕或いは参謀とした二人の入れ替り作戦は、終結に向かって急速に動いている。
 翌日参内すると、早速昭陽舎を訪れ、東宮に作戦を授けた。
「尚侍、元の少将が参内されても、昼の間はお召しになってはいけません。尚侍が御髪を切られるのをうまく演出するためです、御辛抱下さい」
 東宮は頷いた。
「わかったわ。夜になったら、大騒ぎしてやるのね。やるわ、私!」
 騒ぎを起こすのを面白がっているかのような言い方だ。この性格は、いざ本番となった時に軽挙妄動してしまう恐れなしとしないのではあるが。
 三日ばかり後、帝の強い意向に抗し切れず、尚侍は写経を中止して参内した。
「尚侍が、写経二十巻の半ばで、出仕なさったそうですな」
 夕刻、御前に伺候していた按察大納言が、ふと思い出したように言った。帝は、側にいた私に気兼ねしたのか、物憂く顔を曇らせて呟いた。
「私も、折角の願掛けに水を差す積りはないが、余りにも長過ぎるし、色々と心配だったものだから、性急に呼びつけてしまった」
 按察大納言は首を振り、
「いやいや、こう申しては何ですが、幾ら写経しても綺羅少将はもう、望み薄ではないかと思います。尚侍は新たに女御になりなさる方なのに、慣れぬお籠り生活で御体に障ったら、大変な事です。お召しになられたのは賢明だったと思います」
と、帝の気を引き立てようとするかのように言う。帝が寂しげな苦笑を浮かべたのに、私は気付いた。
 早々と夜御殿に入った帝を尻目に、私は弘徽殿を訪れ、あれこれと話に花を咲かせていた。やがて弘徽殿女御も帳台に入り、一人殿舎を後にしようとした時、北東の方から何やら甲高い叫び声や、人々の乱れた足音が聞こえて来た。数人の人が、声高に叫びながらこちらへ向かって来る。清涼殿へ向かって行くと、
「何事だ、この騒々しさは!」
 帝の声が聞こえた。二三人の女房が、公達に押し留められながら清涼殿へ入って行く。その後を追けてゆくと、女房の声がした。
「大変でございます、東宮様はすっかり興奮なさって、手が付けられません。尚侍様が、尚侍様が……」
「尚侍がどうかしたのか」
 帝の問いに、女房達は泣き伏したらしい。
「おいたわしゅうて、とても、とても女の私共の口からは……! 何という恐ろしい事でしょう、物怪の仕業ですわ、おいたわしい!」
 帝は女房の泣き言が要領を得ないのに業を煮やしたのか、一際声高に、
「梨壷へ行く」
と言い置いて清涼殿を出て来た。私を見つけると、
「帥宮、そこにいたか!」
 間髪を入れず私は応じた。
「私も参ります!」
 わざとらしく太刀の柄に手をかけ、帝を先導してずんずんと昭陽舎へ向かった。昭陽舎に近づくと、人々のざわめきや泣き声が一層高い。帝は不安の余り、
「東宮! 東宮は無事か!? どこにいる」
「主上!」
 奥から東宮が走り出て、帝にしがみ付いた。
「大変だわ、とんでもない事が起こったの、私の不注意でした、どうしていいのかわかりません!」
 そう言うなり、おいおいと声を上げて泣く。
「どうしたのだ。一体何が起こったのか、はっきり言いなさい」
 帝の詰問に、東宮は泣きながら答える。
「尚侍ですわ。尚侍が、どうしても女御になるのは嫌と言って、尼になると決心して……」
「尼に!?」
 帝の声が裏返った。
「そんな事は、私が許さない。第一、綺羅少将の行方が知れぬ今、尚侍は右大将にとってはたった一人の姫君ではないか。尼になど、右大将が許す訳がない」
 何を悠長な事を、と思っていると東宮は、
「いいえ、遅うございましたわ。私達に反対されると思ったのか、たった今、お一人で、ばっさりと髪を、お切りになってしまったのですわ!」
 声を震わせて叫ぶ。大した演技だ。絶句する帝に東宮は、
「今、桐壷の一室にお籠めして、五月等に見張らせています。とても興奮していらして、このままでは髪どころか、お命まで絶ちかねない様子で……」
「……愚かな事を!」
「尚侍を尼になど、させたくありません。主上、何とかして下さい」
 帝に縋りつく東宮に、帝は当惑した様子で、
「何とかと言われても……ともかく、この事は外に洩れないようになさい。私は尚侍に会って来る」
 帝は淑景舎へと急いだ。東宮は帝の後ろ姿を見送ると、私に向かってにやりと笑い、片目をつぶった。私は小さく頷くと、帝の後を追って淑景舎に踏み込んだ。
 淑景舎の入口には五月が構えている。帝には通すまいとしたらしい五月も、私を一目見ると黙って淑景舎へ入らせた。帝の後ろに立って、薄暗い殿舎を見回すと、几帳の陰から幾筋かの髪がはみ出ている。帝の目はその髪に釘付けになっているらしい。茫然と立ち尽くしていた帝は、やがて、絞り出すような声で、
「尚侍、そなたは、何という……。こんな風にする前に、何故、私に言ってくれなかったのか。こんな無情な事を……。残された父君や母君の気持はどうなるのです」
「お許し下さい。私には、これしか術がなかったのです」
 ぴんと張り詰めた声が聞こえた。その瞬間帝の全身に、鋭い緊張が走ったのがわかった。何かに動揺しているのだろうか。
「どうして、入内をそんなに厭われるのか。誰か、思い交わした人がいるのか」
「――はい、思う方がおります」
 尚侍の声は上ずり、震えている。ここが芝居の打ち処、乾坤一擲の勝負なのだ。
「思う人がいる……?」
 帝の声には驚きと、訝り、そして不快感もが交じってきた。
「そなたは出仕前、邸に籠り切りで、一歩も外へ出た事がなかったと聞いている。それで、いつ、思い合う人と出会ったのか。見え透いた嘘を言ってまで、それ程に入内をお厭いか」
 鋭く詰問する帝。尚侍はか細い声で、
「――たった一度、嵯峨野に参った事がございました、死を覚悟して……」
「え!?」
 必殺の切札に、帝は息を呑んで立ち尽くした。冬の夜の寒さのせいばかりでなく、激しく打ち震えている。
「そこで、お会いした公達の事が忘れられません。死を覚悟した私に、生きよと仰言いました。その一言で、私は救われました。その時以来、私はずっと、その御方をお慕いしておりました」
「……そ、そんな……。そ、その者の、名は……」
 擦れ声で呟く帝に尚侍は第二弾を放つ。
「存じません。ただ、紫水晶の数珠を下さいました。それを頼りに、今日迄生きて参りました。その御方でなければ、嫌です。私を、尼にして下さいませ」
 ここに至って帝は、その公達が自分である事に思い至ったようだ。肩を聳やかして一歩進み出ると、
「尚侍、非常の時だ、無礼を許されよ!」
と声高に叫びながら、几帳を撥ねのけた。几帳の向こうに打ち臥している断髪の女、他ならぬ尚侍の袖を掴み、ぐいと引き起こして灯火の方に顔を向けさせた。その顔が曾ての雅信少将に余りにも似ている(本人なのだから当然だが)のに、帝は驚きの余り、声も出ずに坐り込んだままだった。
「あ……貴方は……!」
 尚侍は素晴らしい迫真の演技で、小さな叫び声を上げると共に、がくっと首を垂れて失神してみせた。
「そなたは……あの時の……!」
 帝の唇からも、感極まったような呟きが漏れた。感動に打ち震える帝の後ろに立った私は、見事な迄の芝居の大成功に、こみ上げて来る笑いを抑えるのが精一杯だった。
 五月に目配せして淑景舎を出、昭陽舎へ戻って来ると、東宮はまだ、どうにも落ち着かないような様子でうろうろしている。私は東宮に歩み寄り、耳打ちした。
「尚侍の大芝居は、大成功でしたよ。今度は貴女の番です。尚侍が御髪を下ろされた事に衝撃を受けて、悲しみの余り寝込まれる、という芝居ですよ。宜しいですね」
「いいわ」
 東宮は私を見上げて微笑んだ。
 翌日参内するなり、帝に召された。参上すると帝は、明らかに寝不足とわかる赤い目で私を見て言う。
「昨夜は、どうしたのだ。我に返ってみたらそなたの姿がない。五月に尋ねたら、とうに帰ったと言う。何故終いまで見届けようとしなかったのか」
 私は平然として嘯いた。
「主上と尚侍のやりとりを伺いますに、私のような部外者が立ち聞きするのは差し障りのあるような事と判断致しましたので」
 帝は私を招き寄せ、小声で言った。
「昨夜の事は、他言無用だ。入内を前に髪を切った事が表沙汰になったら、尚侍のためにもならない。それに、嵯峨野の姫の話は、私と東宮、そなたしか知らぬ事だから」
 帝は暫く黙っていたが、
「それにしても、あの尚侍が嵯峨野の姫その人だったとは、何と不思議な縁があった事か、という気がするし、いや、やはりそうだったか、という気もするし、何と言っていいやら……。お蔭で昨夜は、一睡もできなかった。
 しかし、どうしたものかな。嵯峨野で会った公達というのは、それは私だと明かしてしまっていいものだろうか。どうだろうな……」
 或いは感に堪えず、或いは困惑し切って、取りとめもなく語る帝は、昨夜のあの感動的な出来事が、語っている相手の私を黒幕として仕組まれた壮大な芝居の一幕である事には全く気付いていないだろう。事の真相を知り尽くした私にして見れば、可笑しいとしか言いようがない程、見事に帝は眩惑されている。帝は私と違って、まず物事を疑ってかかるというような考え方ができない性質なのだろう。良く言えば純真、素直、悪く言えばこれ程騙しやすい相手はない。
 十二月も下旬、年の瀬も押し詰まった。私の本邸に潜伏している少将、元の尚侍は、宮中の礼式や少将の職務などを、私に直接指導を受け、或いは尚侍から手紙で教わり、一通り身に着けた。目を宮中に転ずれば、尚侍の断髪は帝の厳重な箝口令の効果あって今の所漏洩している様子はないし、その尚侍を口説き落とそうと桐壷に日参している帝は、私達の大芝居に気付いた様子は全くない。東宮は東宮で、尚侍の断髪に衝撃を受けたと装ってずっと寝込んだままで、それを誰も疑ってはいない。少将を復帰させる潮時は今だ。そうと決断すると、本邸の少将に作戦を授け、後宮の東宮と尚侍に文を送った。
 まず最初に、少将を堀川殿へ帰らせる。永らく諸国を流浪したという演出のために、少将の装束は七月に出奔した時と同じ物を、五月を通じて堀川殿から取り寄せ、この一ヶ月間は食事を減らして、幾分痩せさせてある。参内してからの演技について、幾つか指導してから、少将と二人、徒歩で堀川殿へ向かった。
「洛中も、こうして庶民と同じに歩いてみると、随分違うでしょう」
 こうした経験も、少将の将来に資する所大であろうと思って尋ねても、
「はぁ……そうですね……」
 雪解け道に草鞋の歩きにくさに閉口してか、少将は足元ばかり見ていて返事も上の空だ。まあ、いい。こういう試練を経ても人間に脱皮できず、貴族に留まる(随分語弊があるが)のなら、その程度の者なのだ。
 堀川殿の道一本手前まで来た処で、
「ここからは、貴方一人でお行きなさい。あそこが貴方のお邸です。明日また、宮中で会うのを、楽しみにしていますよ」
と言って、少将の肩を軽く叩いた。
「色々と、有難うございました。姉の分も、お礼申し上げます」
 少将は頭を下げた。
「いいんですよ。それより、明日はうまくおやりなさい」
 少将は、堀川殿の門へ向かって行った。少将が門内に姿を消すのを見極めてから、私は帰途に就いた。
 翌朝、春興殿の近くをうろついていると、少将が一人で参内して来た。少将は私を見ると、殆ど誰にもわからない程、素早く目配せした。私が小さく頷くと、少将はわざとらしく肩を聳やかせ、足音荒く清涼殿へ向かった。私はその後を追うように、小走りに清涼殿へ向かった。
 少将が殿上の間に入ってゆくと、殿上の間が一斉にどよめいた。それに続いて殿上の間へ入ってゆく。
「綺羅少将、無事でしたか!」
「お久し振りですね、懐しい」
 公晴や平侍従が再会を喜んで声をかけるのに少将は耳も貸さず、真っすぐに信孝の前へ進み出ると、思い詰めたような声で、
「頭中将殿!」
 これには信孝も面喰らったろうが、そこは蔵人頭の貫禄を見せて、悠然と応じた。
「何ですか、もう少し落ち着きなさい」
 少将は信孝の前に手を突いた。
「お願いです。東宮に、拝謁をお許し願いたい」
 信孝はすっかり当惑した様子で、
「東宮に!? それはまた、どうして」
「訳は聞かないで下さい。東宮に今一度、お目通りが叶えば、私はすぐ、出家致します」
「出家!? 折角戻って来て、いきなり何を言うんです」
 信孝と少将のやり取りに、殿上の間の面々は揃って聞き耳を立てている。隣同士顔を見合わせる者も少なくない中、私は内心満足の笑みを洩らしながら、外面は平静、無表情を装っていた。
 ふと顔を上げて櫛形窓を見ると、帝が殿上の間を覗いている。と見るうちに、帝の顔は引っ込んだ。立ち上がって櫛形窓に歩み寄ると、見覚えのある女房が、帝に何やら報告している。あの女房は確か、東宮付の女房の一人だ。示し合わせておいた通り、東宮が騒いでいるのに違いない。こちらの首尾も、見届けておこう。私は殿上の間を抜け出し、黒戸から昭陽舎に向かった。
 昭陽舎に近づくと、東宮のあのキンキン声が聞こえて来た。東宮が暴れるらしい物音、それを鎮めようとする尚侍の声が入り乱れる。示し合わせた通りだ。現場を見届けるには、昭陽舎の中まで入らなければならないが、外にいても声は聞こえる。私は昭陽舎のすぐ近く、物陰に身を潜めた。
 すぐに、帝が来ると告げる女房の声がした。それを契機に、東宮の騒ぐ声と物音は一層激しさを増す。やがて、
「どうした騒ぎだ、これは」
 帝の驚いた声に続いて間髪を入れず、
「主上!」
 ばたりと突っ伏す音に続いて、
「綺羅少将が出家するなら、私も尼になります! 綺羅少将をお咎めになるなら、私、死にます! 私、私、わぁぁ……」
 東宮は叫び、迫真の演技で号泣した。今回私が手を組んだ顔触れは、本当に芸達者揃いだ。
 東宮を鎮めようと女房総出になって、昭陽舎内は大騒ぎになった。その騒ぎに紛れて、尚侍と五月が逃げ出して来た。二人とも引っ掻き傷や擦り傷が幾つもあり、装束も乱れている。
「帥宮様!?」
 私に気付いて目を瞠る二人を手で制し、
「しっ! 事の首尾を見届けに参りました、他人に気付かれぬように、桐壷に潜り込ませて下さい」
「わかりました」
 尚侍は小声で答えた。五月に導かれて私は、淑景舎の奥深くに忍び込み、尚侍の帳台の中に身を隠した。
「幾ら何でも、やり過ぎじゃございませんかしら。疑われては元も子もありませんのに、東宮様も限度という物を考えて頂きませんと」
 五月がふて腐れている。
「そうお思いなら、尚侍に上手に言い繕って頂かねばなりませんね」
 東宮はそれ程の過剰演技だったろうか、現場を見ていないと何とも言えない。
「やれやれ、漸く東宮も落ち着かれた」
 暫くして、帝がぐったりと疲れた様子で淑景舎に顔を出した。
「そなたは怪我をしなかったか、尚侍、私は手を引っ掻かれた。しかし驚いたな。あの東宮が、あれ程取り乱すとは。いや、元々暴れん坊ではあったが、よもや恋愛沙汰であのように……」
 帝は合点がいかないらしい。
「どう考えても、信じられない。あの綺羅少将と東宮が、理無い仲であったとは……。興奮している東宮の話をとりまとめると、尚侍が出仕して以来、綺羅が毎日のように伺候するので親しくなった、という事らしいが……、そなた、気が付いていたか」
 尚侍は笑いを怺えつつ、
「い、いいえ、一向に」
 幾分声が震えたのを、帝はどう取り違えたのか、
「そうだろうね。そなたも驚いただろうな。しかし、私はもっと驚いている。綺羅が失踪しても少しも慌てず、そなたと遊んでばかりいた東宮が、まさか……」
 そうか、こういう疑念はあり得た訳だ。少将が失踪した七月から、東宮は別段思い患ったり寝込んだりする事はなく、尚侍が少将探索に出た後も、寂しそうな様子を見せてはいけないと指図して、平静を装わせてあったのだ。東宮が本当に思い患って寝込むような様子を見せたのは、この一月ばかりの間だけであった。
「恐れながら……」
 尚侍は、尤もらしい言訳を考えているらしい。私は素早く耳打ちした。尚侍は咳払いしてから、私の言った通りに、
「……兄の失踪は御自分のせいだと思うにつけても、何も語らず失踪した兄の名誉のために、じっと耐え忍んでいらしたのでは」
 少し無理があったか。案の定帝は半信半疑で、
「じっと耐え忍んで、ねえ。どうも郁宮はそういう性格ではないのだが」
 私は再び耳打ちした。
「女は恋をすると、変わりますわ。三の君のように」
 苦しまぎれだが、予想に反して効いた。
「それはそうだ。なよやかにか弱い方も、いざとなると自分で髪を切る位だからね」
 帝の口吻は少し嫌味を感じるが、疑っている様子はなく、小さく笑った程だった。
「しかし、どうしたものか。綺羅少将が帰って来た事は喜ばしいが、こうなると、どういう態度で接していいものか……」
 私は何も言わなかったが、尚侍は五月と目配せしながら、にやにや笑って、
「主上は兄を大層、お気に召していらっしゃいましたし……」
と帝の古傷に触れる。帝は慌てて弁解する。
「あ、いや、あれは、む、昔の事だ。それも、そなたに似ているからと思えばこそ、だ」
 全く、単純な人間だ。尤もこれ位単純だから、私の頭脳を以てすれば容易に騙されてしまって、作戦遂行上支障が少なくて助かるのだが。帝が私の半分程も疑り深かったら、ここ迄うまく行ったかどうか心許ない。
 一つ気になる事がある。その事を尋ねてみるよう、尚侍に耳打ちした。
「ところで、都を捨てて失踪した兄に、お咎めはあるのでしょうか」
「いや、重大な失策を犯した訳ではないからね。今日既に参内して来ているから、本人にその旨、直々に話して安心させてやろう。以前の通り、参内するように、そなたも会いたがっているだろうし」
 少将が参内し、帝と直接対面するとなると、一つ問題がある。その事について、予防線を張っておくよう、尚侍に耳打ちした。尚侍は注意深く、
「――都育ちの人が都を離れ、諸国を流浪し、死ぬ程の苦しい思いをした事でしょう。以前とは、面差しも何もかも、変わっているかも知れませんね。宮廷の約束事なども、すっかり心許なくなっているかも知れませんわ。可哀そうに、都を離れているうちに、鄙者になり果てたと爪弾きされるのが目に見えるようですわ……」
 何ヶ月も地方を放浪し、庶民の間に身を置いて暮らして来て、それで変わらないような者なら救いようがない、と私は思うのだが、一般の貴族にとってはそうではないらしい。地方生活を経験する事が即、堕落する事のように思っている輩すら多いのだ。
 帝は尚侍の機嫌を取ろうとしてか、妙に慌てて、
「つまらぬ事を気にする物ではない。綺羅少将は綺羅少将、いかに外見は変わって見えても、そんな事は大した事ではない。あの蔵人少将も、例の事件の後は、随分と面変わりしていた。若い公達は、ある事を境に見違える程変わるものだ。そんな事で、鄙びたなどと言わせはしないよ」
 少時、言葉が途切れた。私に唆かされて、尚侍は口を開いた。
「あの……兄と東宮様の事は、お認めになっては下さいませんの」
「いや、今すぐにも認めてやりたい位だ。郁宮は元々東宮を嫌がっていたし、東宮を降りれば内親王として、結婚には別段障りはない。ただ、そのためには、私の皇子が必要なのだが」
 何を言うんだ、皇子は既にいるじゃないか。眉を寄せた私の耳に、帝の言葉が続いた。
「皇子を産んで欲しい方は、いまだに入内を渋っているし……」
 そうか、そう言ったか、それが本音か! 二の宮を東宮に立てようと、私には言っておきながら、本音はこうだったのだな。宜しい、帝の本音はわかった。
 帝が去ってから、私は淑景舎を抜け出し、殿上の間へ戻った。帝は御座所へ戻るや否や少将を召し、出来るだけ早く東宮を降嫁させるよう努力するから決して早まらぬように、と少将を諭している。
 出来るだけ早く東宮を降嫁させる、その後釜は既に三ヶ月、無事に育っている。何を躊躇する事があろう。しかし先刻の帝の発言からするに、帝は法成寺一門に皇嗣を定めたくないのだ。そうなれば私の出番だ。あの姉弟との提携は終焉したが、もう一仕事、働かなければならぬ、弘徽殿のために。ただ、表立って行動すると、法成寺一門に連なる者としての立場上、党利党略に走っていると目されて、それも面白くない。
 少将が退ってくるとすぐ、私は帝に召された。帝は私を近く招き寄せて、
「帥宮は知らないかも知れないが、こんな事があったのだ」
 知らいでか、と内心は思ったが、それを表には出さずに畏まって謹聴していると、帝は少将と東宮との事を、あくまで帝から見えた範囲だけ、綿々と語った。
「だから、東宮と綺羅の仲を、私としては勿論認めてやりたいのだ。既にもう、東宮に立てるに相応しい男皇子もいる事だし……」
「という事は、次の東宮は二の宮に定められるもの、と思って宜しいのですか」
 私は念を押すように尋ねた。帝の本音は、法成寺一門の出の皇子に皇統を嗣がせたくない事だと、確信に近い物を持っていながら敢えてこんな事を言ってやるのだ。
「まあ、それはだな……」
 曖昧な返事しかしない帝に、私は畳みかけた。
「尚侍が男皇子をお産み申すまで、言を左右にして東宮を定められない、などという事が万が一あったとすれば、それは些か不都合があるのではないかと思いますが」

−−−−−ここまでで中断−−−−−
(2001.1.11)

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