岩倉宮物語

第七章
 七月十日、少将を始め四五人の若手殿上人が御前に顔を揃えた事があった。その顔ぶれを見渡して、帝は言った。
「残暑の厳しい折ではあるが、暑い時は運動して汗を流すと気分爽快になるものだ。蹴鞠など、やってみてはどうかな」
 少将を始め、平侍従、左兵衛佐といったこの顔ぶれは、実は蹴鞠の上手である。少将達が清涼殿前の庭に降り、掛け声も勇ましく蹴鞠を始めたのを聞きつけて、私は早速拝謁を乞うた。
「何だ、帥宮。遊びを止めさせるような、無粋な事は言わないでくれ」
 幾分迷惑がる帝に、私は、
「とんでもございません。私も、蹴鞠に加えて頂きたいと、そう申し上げに参ったのです」
 すると帝は目を輝かせた。
「おっ、そうか、そなたもか。そなたの蹴鞠を見るのは久し振りだな。清涼殿越えの高蹴りがまた見られるか?」
 私が侍従だった時分、清涼殿前で蹴鞠をやっていて、力任せに一発蹴り上げた鞠が清涼殿の屋根を越えて後涼殿前の庭に落ちた事があって、今でも語り草になっている。自慢じゃないが足腰の強さは、そんじょそこらの貴族連中とは訳が違うが、貴族遊技としての蹴鞠では高蹴りや遠蹴りは褒められないとわかっているので、今ではそんな無茶な事はしない。
「御所望とあらば、紫宸殿越えでもして参らせましょうが、他の人の迷惑ですから」
 私は下襲の裾を石帯に挟んで、清涼殿前の庭へ降りた。輪になった少将達の中に私も加わり、颯爽と鞠を蹴上げ始めた。私の蹴る鞠は、一際高く上がる。高く上げれば上げる程、滞空時間が長くなって、受け手が態勢を整えやすくなるのだが、受け手が受けやすい位置に落下させるのも難しくなる。蹴鞠は鞠の上がる高さを競うのでない代り、鞠を蹴上げる姿勢の美しさを競うという面もあるので、受け手が楽に、綺麗な姿勢で受けられるように鞠を上げてやるのも技術のうちだ。
 そうしているうちに、次第に風が出てきた。次は自分に鞠が回って来ないとわかっていれば、風が吹いている方が涼しくていいのだが、自分が受ける番になるとそうも言っていられない。何しろ鞠は軽いので、風で流されて思わぬ所に落ちてくるのだ。案の定、受け損なって空振りする者や、受けたはいいがつんのめりそうになる者が続出する。
「はいやぁ! そら、帥宮殿!」
 平侍従が鞠を上げた。高く上がった鞠から目を離さず、と見る間に風が起こり、鞠が流された。私は鞠を目で追いながら、落下地点を目測して走った。
「あっ!」
 誰かが声を上げた、と思う間もなく、私は目の前に立っていた誰かに激突した。その誰かが少将である事に気付いた時には、私の体は少将諸共、勢い余って地面に倒れ込んでいた。小柄な少将に、走って来た大柄な私が激突したのだから少将は一堪りもなく、なす術もなく私の下敷になってしまった。私は何とか手を突いて、自分の体が少将を押し挫ぐのだけは避けようとしたが、何とした事か、将に地面に倒れ込んだその時、私の左手は少将の胸板をぐいと押していた。その時左の掌に受けた感触を、私は生涯忘れないであろう、薄物の袍を通して私の掌に伝わった、柔かな弾力ある感触こそ、紛れもなく乳房の感触だったからだ。私は遂に、少将が女である事を、この手で確かめ得たのだ。
「帥宮殿! 大丈夫ですか!?」
「綺羅少将!」
 他の者達が、ばらばらと集まって来る。私は素早く身を起こし、仰向けになっている少将を抱き起こした。少将は頭を打ったらしく、抱き起こした当座は目を半眼開きにし、ぴくりとも動かなかったが、私が大声で名を呼び強く揺すると、漸く正気に戻って、目を瞬きながら怯えたような顔で私を見上げた。
「申訳ない! 少将、大丈夫ですか?」
 少将は小さく二三度頷くと、
「ええ、も、もう、大丈夫です、済みません」
と絞り出すように言って立ち上がったが、足元がふらついて真っすぐに立てない。帝が心配して、典薬寮に手配しようと言うのを少将は固辞し、元気な風を装ってはいるが、これでは到底蹴鞠を続けられる状態ではない。
「大事を取って、今日はもう帰って、休んだらどうだ」
 と言う帝の勧めに従って、少将は堀川殿へ帰る事になった。こんな事故を起こした当事者としては黙って見送れないので、万一の事があってはと、私も同車して付き添う事にした。
 心配気な蹴鞠仲間や蔵人達に見送られて、私と少将の乗った車は内裏を後にした。車内では少将は、事故の衝撃醒めやらずか、じっと押し黙ったままだ。私としても言う事がなくて、何とも気まずい雰囲気の中で黙りこくっていた。大丈夫かと繰り返すのも能がないし、さりとて私が遂に確証を掴んだあの事実を、こんな時こんな所で切り出せるものでもない。何を言おうかと考えあぐねているうちに、車は堀川殿の門を入った。
 西の対に車が着くと、私はまだ少し足元のふらついている少将を支えて、車から降りさせた。少将が宮中で頭を打って、帥宮に付き添われて帰宅したと聞いて、父権大納言や母君の騒ぎ惑う様子は一通りでない。何と言っても私の前方不注意が原因なのだから、私は少将の両親には頭の下げ通しであった。
 暫く経って少将の様子を見に行くと、少将は後頭部に湿布を当てて臥していたが、私が来たのに気付くと起き上がった。
「帥宮殿、まだおられたのですか」
「無理なさってはいけませんよ」
 私が制するのに少将は笑って、
「もう全然、痛くも何ともないです。御心配をおかけして、本当に済みません」
「本当に痛くないんですか。一日か二日は、静かにしていた方がいいですよ」
 昔九条に住んでいた時分、私の家の近所に住んでいた人が、道で転んで頭を打った事があった。その日は何ともなかったのだが、翌日あたりから吐き気がしたり手足が痺れたりし始め、三日目には昏睡に陥って、七日目に死んだのだった。そんな事実を目の当りにしていると、頭の怪我には神経質にならざるを得ない。
 少将と向かい合っているうちに、何とも気まずい沈黙が流れているのに気が付いた。少将としても病床にある身では余り話題作りにも気が乗らないだろうし、私は私で、切り出したい話題はあるがいつそれを切り出すか、何度も何度も躊っていた。散々考えた挙句、私は意を決して切り出した。
「少将、私は貴方に、一つだけ確かめたい事があるのです。私がこれから尋ねる事に、然りか否か、それだけでも答えて頂きたい」
 少将は僅かに眉を寄せた。
「その前に、これだけは約束します。私は口の固さには自信がある。貴方が今これから、私の尋ねに対して何と答えようとも、私はそれを、絶対に他言しません。それだけは命に賭けて保証します」
 私はきっぱりと言い切ってから、少将の目を真向から見据えて尋ねた。
「少将、貴方本当は、女でしょう」
 見る間に少将の顔が、草の葉のように蒼ざめていった。凍りついたような目で私を凝視したまま、微動だに、いや、ぶるぶると震えている。ややあって、
「……な、何故そんな、お戯れを」
 いつもより一際高い擦れ声で言った。私は真顔で、今一歩膝を進め、低い声で、
「この私が、戯れに物を申すような男に見えますか」
 それから少し声を和らげた。
「少将、貴方は父君や妹君(弟だとは思っていても、それはまだ言わない)、或いは内大臣様や祐姫に、累が及ぶのを恐れておられるのでしょう。ならば今一度、約束します。貴方が何を申されようとも、私は絶対に口外致しません。この約束、身命に代えても守り通します。私とて男の……いや、男女を問わず、約束は必ず守ります。だからどうか、正直に、私の先程の問いに答えて欲しいのです。
 そうだ、もう一つ貴方に約束します。私が今、貴方の答えにくいだろうと思う事をこうしてお尋ねするのは、単なる好奇心ではないし、ましてや貴方の秘密を握って、何か良からぬ方面に利用しようなどという不埒な了見からでは、絶対にないという事。恩着せがましいとお思いでしょうが、私は貴方のために役に立ちたい、役に立てれば幸せだと、そう思えばこそです。
 考えて御覧なさい。貴方が誰にも言えないような秘密を抱えて世を渡っておられる限り、いつかきっと誰かが、その秘密に気付く時が来ます。現に今、この私が気付いているのです。その秘密に気付いた者が、今の私のように貴方に対して何の下心も持っていない者である保証は、どこにもないのですよ。もし貴方を快からず思っているような輩だったら、貴方のその秘密は天下に素っ破抜かれて、貴方も父君も二度と世間に顔向けできなくなるか、さもなければ一生そ奴の言いなりになって何もかも捲き上げられるか、どちらにせよ貴方の一生は台無しにされますよ。貴方の秘密に気付いた者がこの私だったのは、貴方にとって又とない幸運だったと申してもよいでしょう、私以外の者だったら、貴方のこの秘密が天下に露見しないよう貴方のためにお力添えしよう、などと申し出はしないでしょうから……」
 少将は冷たい、そのくせ虚ろな目で私を見つめたまま、暫く黙っていた。やがて、
「何を根拠に、そんな事を仰言るのです。単なる思い付きなどで仰言ったのなら、今すぐお帰り願います」
と、精一杯の強がりを見せた声で言った。私は、
「私が貴方にぶつかって、地べたに倒れた時の事、覚えておいでですか」
と言いながら、左手を自分の右胸に当てた。
 僅かに血色を取り戻していた少将の顔は、見る間に再び透き通る程蒼白になった。目が大きく見開かれたと見るうちに、下瞼に涙が溜まって、頬に流れ落ちた。半開きになった唇が震え、
「……そ……帥宮殿の仰言る通り、私は、私は、本当は、女です……」
と、か細い声で言ったきり、後は言葉にならなかった。がくりと首を垂れ、袖を顔に押し当てて、鼻を啜る音しか聞こえない。私はじっと黙って坐ったまま、少将が落ち着くのを待った。そのうちに湿布を換えに来た女房が、少将の様子に不審の念を抱いたようだが、気が昂ぶっているらしいからとか何とか言って適当にごまかして退らせた。
 やがて少将は顔を上げ、何かが吹っ切れたような顔で言った。
「この際、全てを申し上げます、帥宮様に」
 帥宮様、と言ったのに軽い驚きを覚えつつ、私は居ずまいを正した。
「どうしてこんな有様になったのか、自分でもわかりません。小さい頃から男物の衣を着せられ、男の子として育てられてきたせいなのかも知れません。私自身、男の子達と遊ぶ方が好きでしたし、もっと大きくなってからも漢詩や笛、蹴鞠や弓矢の方が好きでしたので、男として育った事に、何の不思議も違和感も感じなかったのです。その挙句には、男として元服し、宮中に出仕したいと父にねだった事も……。勿論父が、許してくれる筈はありませんでした。女の身で男として出仕したら、どんな事が起こるか、父にはわかっていた筈です。ところが……私の名が叡聞に達し、主上のお声がかりで私は元服、出仕する事になりました」
 少将は訥々と語る。
「出仕した当初から、私は主上には過分に顧られて参りました。しかし私は、いつ主上に私の正体を見抜かれるか、そればかりが気掛りでした。それと言いますのも……出仕する少し前の七月、何としても元服を許してくれない父に腹を立てて、嵯峨野の山荘に籠った事がありました、その時、暑さ凌ぎに池で水浴びしていて、あろう事か男に体を見られたのです(そんな事だったのか、と私は永らく抱いていた疑問が氷解した事に、肩の力が抜ける思いだった)。出仕したその日、主上に拝謁仕り、嵯峨野で私の正体を見た男こそ他ならぬ主上その人であらせられたと知った時の、驚きと恐れは、今思い出しても身震いがします。主上は嵯峨野で御覧になったのは、私ではなく私の妹として喧しく噂されている姫だと思っておられる御様子ですが……。
 でも、思えばその頃迄が華でした。その後、内大臣様の祐姫と結婚する事になってからは……。私と結婚する限り祐姫は、決して御子に恵まれる事はありません、それを全く知らない、余りにも素直な祐姫に申訳なくて、姫の顔を見るのも辛くて忍びなくて……そればかりか、祐姫との結婚の事では主上とお競り申すような事にもなって、そのせいか主上の御機嫌をすっかり損ねて、参内しても中御門殿へ参っても、心の休まる時もありませんでした……」
 少将は唇を噛んだ。自ら望んでしたのではない結婚のために、絶対の権力者たる帝に嫌われて、身の置き処のない悔しさが、ありありと現れていた。仲の良い夫婦に嫉妬するなどという、あの帝のどうしようもない狭量さが、少将をこれ程に苦しめたのだ。
「そこへ持って来て、尚侍の事です。これもこの際、帥宮様だけには打ち明けますが、世間に私の妹と言われていますのは、本当は弟なのです(やはりそうだったか、と私は深く納得し、同時に自分の深読み癖も満更捨てたものでもないと、心強い物を感じた)。弟は私と打って変って、生まれた時からごくひ弱でしたせいか、ずっと女として育てられて来て、女としても内気で繊細な人で、邸の外へなど一歩も出られないような人です。それなのに宮中へなど、まして尚侍と申せば、主上のお妃の事ではありませんか。もしそのような事になれば、私の一家は破滅です、ですから何としても、弟を尚侍にはさせまいとしたのです。主上が弟を尚侍にと仰せられたのは、東宮の為を思っての事だと拝聴して、どうにか納得はできたのですが、それでも万一、主上の御目に留まる事があったらどうしようと、そればかりが心配でした。今の所弟は、東宮とも他の女御様方とも、それなりにうまくやってはいるようですが」
 少将は不意に、深い溜息をついた。
「最近になってもう一つ、思ってもいなかった事が起こってしまいました。私が女だと気付いておられる帥宮様なら、もうお気付きでしょうけど、祐姫の懐妊の事です。内大臣様から伺って、初めは全然信じられませんでした。すると祐姫が、私でない男の人が忍んできて、そのせいで身籠ってしまったのだと、涙ながらに言ったのです。その男が誰なのか、何度尋ねても祐姫は、決して言いませんでしたが……」
 でしたが? 私が眉を寄せると、少将は、
「帥宮様、私は帥宮様を信じて、ありのままを申します。その男は、蔵人少将でした」
 やはりそうだったか。予想していた通りの事なので、別段驚きもせず黙っていると、少将は不思議に思ったのか、
「何故、驚かれないのですか」
と尋ねる。私は深く頷いて、
「そうではないかと、思っていたのです。内大臣様が仰言る通りの月数だと、誰かある男が祐姫を身籠らせたのは二月の末になります。その頃蔵人少将が、中御門殿に泊った事を、私は内大臣様御自身から聞きました。それに二月末からの蔵人少将の様子、女三宮と契った後の柏木そのものでした」
「……何という慧眼……」
 少将は溜息交じりに呟いた。それから、
「実は私は、見てしまったのです。つい先日、この邸に泊る筈の夜でしたが、蔵人少将が中御門殿へ向かうのを見かけまして、もしやと思って尾けてみましたら、蔵人少将は中御門殿へ忍び込み、祐姫と逢っていたのです。私の見る限り、蔵人少将はいざ知らず、祐姫は蔵人少将を、本当に愛している様子でした。ですから私は、祐姫も蔵人少将も、どちらも責める積りは毛頭ありません。蔵人少将と結ばれた方が、きっと祐姫は本当に幸せになれる筈です。今のままでは祐姫はこの先ずっと、私の子でない子を産んだ事の罪の意識に怯え続けなければならないのですから……」
 祐子があの蔵人少将と正式に結婚して、本当に幸せになれるかどうか、どうも私には心許ないのだが、祐子の真の幸せを願って已まない少将の、真情溢れる言葉を耳にしては、黙って頷かざるを得なかった。
「蔵人少将はいい男ですよ。彼の為にも、何とか円満に解決して差し上げたいとは思いますが、しかし……私がしゃしゃり出て行って、祐姫を何とかしろと蔵人少将に迫ったりなんかした日には、蔵人少将は自殺しかねませんからね。どうも、どこ迄貴女のお役に立てるか、甚だ心許なくなって来ました」
 私が力なく首を振ると、少将は少し明るい声で言った。
「でも帥宮様に打ち明け申し上げたら、随分気が楽になりました。何か、帥宮様ならきっと私達のために、名案を考え出して下さる、そんな気がします」
「そう言って頂けると有難いのですが……どこ迄その御期待に沿えるか」
 我ながら不思議な程、弱気になっているのに気が付いた。私は少将に、無理をしないよう何度も念を押してから、帰途に就いた。
 今私が、少将のためにしてやれる事は何か。まず何と言っても、蔵人少将との橋渡しをしてやる事だろう。少将は蔵人少将を、恨んだり憎んだりは全くしていないのだが、蔵人少将の方はそうは思っていない。だから徹底して、少将を避けようとしている。これでは二人が膝を突き合わせ、腹を割って話し合う機会はない。そんな蔵人少将でも、私を避ける事はない。ではあるのだが……私が蔵人少将に会って、少将と話し合うようにと言えば、これは、貴方と祐姫の仲は少将も私も知っている、と言うに等しい。今の屈託した蔵人少将が、少将のみならず私にまで気付かれたと知ったら、円満な解決には程遠い結末になるかも知れぬ。下手に手を出して、手を拱ねて見ているよりも悪い結末を迎えては、余りにも寝覚めが悪い。
 少将が頭を打ったのは、大した事はなかったようで、三日後には何事もなかったように参内した。少将の身を案じていた人々、上は帝から下は尚侍付きの女童まで、一様に愁眉を開いた。丁度参内していた蔵人少将も、少将は無事とわかって安堵した様子を見せてはいるが、それでも少将とは目を合わせようとせず、相変わらず屈託している。少将が頭を打って床に臥したと聞いた蔵人少将の胸に、もしこれが元で少将が急死してしまえば……という考えが、ちらりとでもよぎらなかったか、と問われれば、絶対にそうだとは言い切れない気もする。私自身、今思い出しても自己嫌悪に虜われるが、桐壷と信孝、晴子を欺き続けた最後の大勝負の時、真相を幾分かは知っている信孝が、火傷が元で死んでしまえば、と一瞬でも思った事を、はっきり覚えている。
 蔵人少将が少将を正視できないのは尤もだとしても、少将の方も蔵人少将に、言いたくても言えないで困り切っている様子である。実際、蔵人少将に向かって、私の妻を宜しく、とも言えるものではない。私としてもこんな状況で蔵人少将に、少将の話を聞いてやれ、とも言いにくい。その日は結局、無為に流れ、翌日も事態は、何らの進展を見せないままに暮れた。その夜は少将と蔵人少将が、揃って宿直になると聞いた私は、帰り間際に少将を呼んで小声で言った。
「今夜、蔵人少将も宿直だそうですね。丁度いい機会だ、二人で充分、話し合ってみては」
 少将は私を見上げて、決然と言った。
「……私も、その積りです。今夜充分に話し合えたら、明日、お知らせします」
 私は黙って少将の手を握った。
・ ・ ・
 ところが翌朝、参内してみると、予想すらしていなかった事態が起こっていた。少将は昨夜、宿直の任にありながら、夜半前に堀川殿に帰って来た、しかも顔は土色で、足腰も立たぬ程打ち震え、帰って来ると同時に、どっと寝込んでしまったという。頭を打った後遺症が、今頃出てきたのか。だとしても昨日の夕方までは何ともなくピンシャンしていたのに、余りにも突然の急変だ。本当にそんな事が、あるものだろうか。
「昨夜少将殿が帰邸なさった時、他に何か、普段と変わったような事はお有りでしたか、どんな些細な事でも」
 私が殿上の間で、父権大納言を詰問すると、権大納言は考え考え、
「そう言えば……何やら袍の袖が、綻びておったような気が……髻も少し、解けて……」
 袍の袖が綻び、髻が解け、という事は……誰かと争ったのか。では、誰と? もしそのような事があったなら、一緒に宿直に当たっていた蔵人少将から、信孝あたりに何らかの報告がある筈だ。(信孝は蔵人頭だし、右近中将として蔵人少将の直属上司でもある)
 私は早速信孝に、蔵人少将から何か報告はなかったか、と尋ねた。
「いいえ、何も変わった事は報告されていません」
 信孝は首を振る。
「雅信少将が突然退出して、寝込んでいるというのに、何も変わった事はない、と言うのですか!?」
 声を上げて詰め寄ると、信孝は後ずさりして、
「私をお責めにならないで下さい、綺羅少将の事では、私の方が蔵人少将に問い質したい位です。落ち着いて、聞いて下さい。
 私が今朝参内すると、蔵人少将は私を待ち構えていたように右近の陣から来て、口頭で、『昨夜は何事もありませんでした』と報告したのです。その様子が、何と申したらいいか、私の目を避けるような、一刻も早く退出したがっているような、そんな感じだったのです。その時はまだ、綺羅少将に異変があった事は知りませんでしたが、何か様子が変だな、とは思いましたから、『本当に何事もなかったのか』と問い質そうとしましたら、後も見ずに退出して行ったのです。その後ですよ、綺羅少将に異変があったと、右大将様が蒼くなって参内して来られたのは」
「その時、蔵人少将の装束には何か、変な点はありましたか」
 信孝は首を振った。
「特になかったですね」
 さて、蔵人少将が少将の異変を、信孝に報告していなかったとなると、急に現実味を帯びてくる考えがある。つまり――昨夜少将に、祐子の事を打ち明けられた蔵人少将が、少将に事態を知られたと悟って逆上し、少将を殴り倒したのではないか、という事だ。蔵人少将自身には装束の乱れはなかったという事だが、何と言っても少将は女だ。蔵人少将が逆上して理性を失えば、少将を一方的に叩きのめす事は充分にできる筈である。殴り倒された少将が頭を打ち、先日の事と相俟って一気に重体に陥った、とは考えられないか。そして蔵人少将が、万が一にもそれを期待していたのだとしたら……!
「わかりました。本人に会って聞いてみるのが、一番手っ取り早い。私は今すぐ退出して、雅信少将の見舞がてら、蔵人少将に問い質して来ます」
 私は退出するとすぐ、堀川殿へ向かった。しかし女房が出て来て言うには、
「少将様は、どなたともお会いしたくない、今すぐお帰り頂きたいと、そう申しておられます」
という事だ。女房に対しそのように言うからには、人事不省に陥ってはいないという事だ。それなら少しは安心できるのだが、それならそうで、私にも会いたくないという理由がわからない。一体全体、どうしたと言うのだろう。
 腑に落ちないまま堀川殿を後にして、今度は式部卿宮邸へ行った。しかしここでも私は、蔵人少将との面会を拒否された。蔵人少将も、帰って来るや否や床に臥し、誰にも会えないと言っているのだった。これは仮病に違いない、と見てとった私は、強いて蔵人少将の居室へ向かった。
「蔵人少将、昨夜の事で、お尋ねしたい事があります。聞いておいでですか」
 母屋へは入らず、廂の間から呼びかけたが、返答はない。
「聞く所では昨夜、貴方と共に宿直の任にあった雅信少将は、その任にも拘らず夜間に帰邸し、人事不省で寝込んでおられる(ここだけは創作を入れた)という事です。然るに貴方は、頭中将に対し、何事もなかったと報告された由。如何なる仔細があったのか、私に話して頂けませんか」
「何もなかった、それだけです」
 露骨に不快感を表した、蔵人少将の声がした。私は重ねて尋ねた。
「何事もなかった筈はないでしょう、現に雅信少将は、この前の後遺症なのかどうかは知りませんが、人事不省になる程の急病を発したのですから。それなのに何の報告もなかったと、頭中将も不審に思われている様子ですよ。本当に、何事もなかったというのですか」
 蔵人少将は少時黙っていたが、やがて、
「帥宮殿が、何の権限があって私を、犯罪人扱いして尋問などなさるのです、帥宮殿には関係ない事でしょう」
 私は思わず声を荒げた。
「犯罪人扱い!? 人聞きの悪い事を言わないで下さい! 逆ですよ、いいですか、昨夜雅信少将に、殆ど信じ難いような異変が起こった、朝になって右大将様が宮中にお知らせになって、上から下まで大騒ぎです、それなのに、昨夜ずっと一緒にいて、本来ならその異変を第一に報告されるべき貴方からは何の報告もない。このままではそのうち、貴方が雅信少将と二人きりになった隙を狙って少将を殺めようとした、などという流言が出かねませんよ、それでもいいんですか。そうならないためには、貴方が参内して、事実をありのままに報告されればいいのですが、貴方は病で参内できない様子、それで私が、貴方から事情を聞いて、貴方に代って皆に話し、主上にも奏上しようと、そう考えているのです」
 不意に蔵人少将は鼻を鳴らした。
「私が綺羅を殺めようとした、だなんて、どこからそんな馬鹿な噂が出るんですか。そんなつまらない事を考え出されるとは、よくよくお暇ですね、羨ましい限りですよ」
 私は、ぐっと腹立ちを抑えて言った。
「噂などというものは、本人の思いもよらぬ所から、思いもよらぬものが出て来る物ですよ。口さがない世間が、貴方と雅信少将の間をどんな風に言い立てるか、それはもう私には予想もできません」
 蔵人少将と祐子の間を私が知っているという事を、蔵人少将に悟らせないように話を運ぶのは中々難しい。もし今ここで、「祐姫との仲を雅信少将に知られたとわかって、口封じを図ったのだろう」などと言ったら、血の雨が降るかも知れない。
 蔵人少将は斜に構えた声で言い放った。
「世間がどう噂しようが、帥宮殿には関係ない事です、余計なお節介は止めて下さい!」
 私は悠然と立ち上がりながら、
「もう一度、ゆっくり考え直して頂ければ幸いです。気が変わったら、いつでも呼んで下さい。今日は、これで」
 蔵人少将の部屋を後にしてから、今度は式部卿宮に会って、事の次第を話した。
「全く教経も、父の目の届かない所で、何をしている事やら」
 日頃滅多に宮中に顔を出さず、宮中の動静に疎い式部卿宮は、長嘆息して呟いた。
 五日後、少将は参内して来た。ところがその様子は、歩くのが精一杯と思う程足腰もふらつき、顔は全くの土気色、頬もげっそりとこけて、まるっきり別人である。帝は早速少将を召したが、少将の有様に一方ならず驚いて、
「綺羅、そなた、病気は何なのだ? 見違える程細くなって……別人のようではないか」
 少将はぼそぼそと答える。
「か、風邪のようでして……。でも、もう治りましたから」
 蔵人少将に殴り倒されたから、とは言えないだろうがな。帝は少将の言葉を真に受けず、
「治ったなどと……とても見ていられない。今日はもういいから、帰ってはどうだ」
 すると少将は声を上げた。
「いいえ! 病に臥している間も、おと……(もう驚くまいぞ)いえ、尚侍が心細い思いをしているのではないか、何かに怯えて気を失っているのではないかと、気が気ではありませんでした。尚侍に挨拶してからでなくては、家に帰るに帰れません」
 余程体力が落ちているのか、息を切らしながら言う。
「尚侍は相変らず、東宮とうまくやっているよ。会いに行ってやるといい」
「はい」
 少々は御前を退るが早いか、淑景舎へ向かった。
 翌日、少将は、あちこちの詰所に顔を出しては皆に話しかけたり、後宮へ行ったり、いつになく明るく振舞っていた。これが昨日まで、あれ程憔悴していた少将かと、少し不思議な程だった。
 夜、退出しようとした私を少将は呼び止め、物陰に誘い込むと、妙に思いつめたような顔で私を見上げ、小声で言った。
「尚侍には、帥宮様が私達の本当の事を御存知な事を話しました。もし私の身に何かあったら、尚侍を宜しくお願いします」
 私は少将の真意が掴みかねて、
「何かあったらって、あれからもう十日経ちましたよ、もう後遺症は出ないでしょう……」
と言い終わらないうちに、少将は姿を消していた。私はそれ以上さして気にも留めず、光子と太郎が待つ高松殿へと心は飛んでいた。
(2001.1.3)

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