岩倉宮物語

第十章
 私は参内早々、帝に召された。帝は人払いすると、興味津々、早く聞きたくて堪らないという様子で、
「あの文は、確かに晴姫に渡したか」
 渡したのは事実だから、私は答えた。
「確かに差し上げました。残念ながら、御返事は頂きそびれましたが」
 帝は満足そうに頷いた。
「大儀であった。返事はいい、ただ、私がどう思っているかだけを晴姫に知って欲しかっただけだ」
 それから、ふっと寂しそうなまなざしになった。
「しかし、晴姫が弁少将の子供を欲しがっているとなると、私に靡く事はもうあるまい。何か寂しい事だな。少将は、安心するだろうが……」
 私は内心、笑いを怺えていた。内大臣夫妻が晴子の懐妊祈願に出かけたのは、晴子にせがまれたからだと噂は流布しているが、それは晴子が言い出した事だとしても、真相は、子供が欲しくなったからでは断じてない事を、私は知っている。
 他の公達連中も、晴子が信孝の子供を欲しがっているらしいと思い込んでは、晴子に文付けしてみようという気勢も殺がれてしまった様子で、精々信孝をからかう位だ。だが、信孝をからかう内容というのが、ここへ来て一変した。
「帯解寺の御利益で姫君がお生まれになったら、弁少将殿は出世なさいますね」
と、信孝に面と向かって言う者も出てくる。何故信孝が出世するか? 答は自明であった。生まれる姫は、室町左大臣の内孫であって烏丸内大臣の外孫である。現在の宮廷における最有力派閥と、第三派閥――しかし上昇気運にある烏丸派が、落ち目の土御門派を凌ぐのは時間の問題である――の結び目に当たるのだ。
(筆註 この時代の婚姻形態は招婿婚であり、祖父母と同居しているのは娘夫婦の子供達であるので、今日用いる意味での内孫外孫の称は逆にした方が適切である)
 このような姫は、外戚勢力の弱い東宮にとって、その後見を強めるには打ってつけの存在である。間違いなく東宮妃に擬されるであろう、それは東宮の父たる帝としても、望むところである。ところが、そのようになる事によって東宮の立場が確固となるのを、望まない者はいる。宮廷第二派閥たる右大臣の面々、これは弘安帝の遺子高仁親王を擁するのだから当然として、恐らく最も意外な所にもいる。他ならぬ東宮の生母、桐壷である。私は、東宮の実父であるという秘密の事情のため、東宮を位から降ろさせてくれるよう、桐壷に泣きつかれて、――と言うよりも、桐壷を放って置いたら、罪の意識に恐れ戦く余り、うっかりとでも事の真相を漏洩してしまうかも知れぬ。そうなった場合、必ず私に災厄が及び、最悪で死罪、良くて遠流、或いは落飾である。そうなっては、私の一生を賭けた戦略は頓挫である。こんな事で頓挫してたまるか、と考えたからであるが――東宮を降ろすための工作を進めているのだ。
 私が進めている工作は、大別して三点である。第一は、折に触れて帝に、東宮もその母桐壷も後見が弱くて気の毒だ、と吹き込んでやる事。さすがに、だから高仁親王を、とは言い出せない。どういう訳か帝は、高仁親王に好感情を持っていないのだ。自分と無縁の一派が推戴する、自分とはごく遠縁の親王だから、というだけではなさそうだ。近衛殿あたり、右大臣に対抗意識を燃やしていそうな辺りが、帝に何やら吹き込んだのだろうか。第二には、桔梗を通じて大弐に連絡を取り、桐壷に、承香殿に人臣の集まっている今の後宮では、肩身の狭い自分には到底東宮を盛り立ててゆく事はできない、という風な演技をさせる事であった。そのために、大弐を唆して、物怪めいた物を出没させるという細工も凝らした。今のところ、その物怪のために宮中が大騒ぎになった、という様子はない。余りわざとらしくやっては、却って怪しまれる恐れもある。よくよくの事でない限り、何事も中庸が良いのだ。それでも、中心人物の桐壷が物怪に悩まされている、という設定を作り出せば、自ずと殿舎の雰囲気にも影響し、後宮の空気にも影響しよう。そうやって、徐々に徐々に進めてゆく、これが私のやり方だ。
 第三には、これは私の思惑とは少し別の所なのだが、左大臣の末娘佳姫を入内させるよう、三条大納言を唆して運動させる事。これは、私は最初に一押ししただけで、あとは私の手を離れて、大納言とその弟の中納言が父左大臣の説得に乗り出しているところである。
 翌日、私はまた帝に召された。帝は私を間近に招き、人払いしてから話し出した。
「昨夜、姉上から文があった。何でも昨日の午後、晴姫が邸に来たそうだ」
 私は、内心ほっとした。幾ら重大な目的があったとは云え、万が一にも私の放った膝蹴りが元で晴子が死んでしまったりしたら、さすがに寝覚めが悪過ぎる。午後には外出できたという事は、それ程ひどい打撃でもなかったという事であろう。
 私の安堵と反対に、帝の顔には微かな困惑の色が現れている。帝は続けた。
「どうやら晴姫は、私がそなたをけしかけて、晴姫に懸想している振りをさせている事に勘づいたらしい。姉上はそれを知っていた筈なのに、何故止めなかったのだ、とかなり激しく抗議されて辟易した、と書いてきた」
 私はしみじみと言った。
「成程晴姫は、勘の鋭い御方のようですね。一昨夜の文使いの折も、誰の文とも申さなかったのに、ちゃんと主上の御文だと気付いておられた様子でした」
 帝は頷いた。
「うん。それで、私の文の事はともかく、と、そなたが何故、私の他愛ない悪戯に乗ったのか解らない、と言っていたので、姉上はそなたの素姓について、晴姫に話してやったそうだ」
「私の素姓!?」
 私が思わず声を上げたのを、帝は手を上げて制した。
「何、先代岩倉宮家の庶子で、長らく沈淪していて、三年前に初めて世に出た、去年異例の大抜擢で、親王宣下を受けて大宰帥になった、という事だけだよ。あの事は、姉上も知らない事だから」
 あの事――私の出自に関する秘密は、依然私と帝だけしか知らない事なのだ。我知らず安堵の溜息が出たのを見て、帝は言った。
「で、本当に幸薄かったそなたが、私に見出されて栄耀をかち得た事を、そなたは私に深く感謝していた、だから私の持ちかけた他愛のない悪戯にも乗ったのだ、と話してやったら、晴姫も納得した様子だった、という事だ」
 いやはや、知らぬが仏、とは良く言ったものだ。今の私が、この胸の奥にどんな思いを秘めているか、帝も桜宮も、全く知らないのだ。もし知ったら、どんな修羅場が現出するか、想像するだに恐ろしいものがある。
「一つ、疑問に思う事がございますが」
 私が首を傾げながら呟くと、
「何だね」
 帝は興味をそそられた様子だ。
「晴姫は、今ここにおります私、宮中で知らぬ者なく、晴姫にとっても因縁浅からぬ帥宮、岩倉宮正良が、あの時の『光男』だという事に、気付いておられるのでしょうか。一昨日の様子ですと、どうも、良くわからないのです。実は一昨日文使いに参りましたら、初め私を主上と勘違いなさったようでしたが、そうではないと申しましたら、さすがに主上がお忍びで烏丸殿へおいでになる筈がないと考え至った様子で。しかし、私が名乗りましても、あの時の、ですとか、そういう様子は全く見受けられませんでした」
 これは今後の作戦計画の上で、案外重要な事になってくる可能性があるのだ。帝も少し考え込んだ。
「最後に晴子とそなたが会ったのは、いつだったかな。一昨年の八月、だったか?」
「仰せの通りにございます。あの時は主上と、性覚と、信孝と、晴姫と、そして私、五人が一所におりました」
 あの決定的瞬間は、忘れようとしたってそう簡単に忘れられる物ではない。帝に刃を向けた性覚に、思い止まらせようと晴子が縋り付き、物陰から躍り出た一番太刀の信孝が、性覚を袈裟斬りにし、そこへ私が二番太刀を抜いて飛び出した、あの一瞬だ。あの時の晴子の心理状態は知る術もないが、性覚と帝、そして信孝、この三人に全意識が集中していたのなら、遅れて飛び出した私には気付かなかったかも知れない。少なくともあの時、晴子は「光男!」と口走りはしなかったのだ。
「あの時は何しろ、一世一代の大騒ぎの最中でしたから、もしかすると私がその場にいた事、晴姫は覚えておられないかも知れませんね。実際私は、抜いた太刀が几帳に引っ掛かって、結局何もしなかったのですから」
 私が希望的観測を述べた事に、帝は気付いていないらしい。
「そうかも知れないな」
と何気なく言っただけで、それ以上この件に関する話は出なかった。
 帰邸すると、綾子から文が来ていた。妙に乱れた筆蹟で、
〈晴姫は乱心なされたとしか思われませぬ。全く故なき事で、宮様を深く逆恨みしておられます。挙句の果てに、たった一度文をやりとり致しただけの私までも、敵方の手引きをした等と悪口雑言の数々、しまいには、今すぐ出て行けと申されました。今となってはお縋りできる御方は宮様唯御一人でございます、どうか寄る辺のない私に、救いの手をお差し伸べ下さいませ〉
 ちょっと待てよ。どうも変だ。何か引っかかる物がある。綾子の今迄の立場から行けば、綾子は、晴子に協力する振りをして晴子の作戦を聞き出し、私に流すという役割を負っている筈である。もし、綾子を追い出して私の邸に潜入させる――そうだ、これは充分考えられる事だ。私が綾子を引き取ろうと言っていたのをこれ幸いと、綾子をして私の邸に潜入せしめ、私の弱点を握ろう、というのは、晴子でも充分考え付きそうな事だ――というのが晴子の作戦なのだとしたら、当然その立案に際して綾子と謀議を行った筈である。その謀議の内容を逐一私に知らせて、私に先手を取らせる、それが綾子の役割だった筈ではないか。それなのにこの文は何だ? 晴子がどういう作戦を立てているのか、その内容が全く記されていない。もしかして代筆では、と勘ぐってみても、この字は多少乱れてはいるが、紛れもなく綾子の字だ。
 ――文を前にして幾らも考えぬうちに、私の脳裏に浮かんできた考え、それは実に忌々しい考えであった。
 ――綾子が、寝返ったのではないか?――
 私は、思わず力一杯かぶりを振った。そんな馬鹿な事があるか。綾子には、高仁親王が東宮に立てられた暁には東宮妃にしてやるという、この上なく甘い、大きな餌をちらつかせてあるのだ。所詮臣下の姫に過ぎない晴子が、どうやってそれより美味い餌を綾子の目の前にぶら下げてみせるというのだ。どう計算したって、私に付く方が晴子に寝返るより得な筈だ。まして私を裏切って晴子に寝返ったのなら――私は裏切り者は、女だろうと容赦しない。女に裏切られて野望が成就しなかったとあっては、一生の蹉跌、末代迄の恥辱、そんな事は断乎として阻止せねばならぬ。私がそれ位の決意でいる事、綾子が知らぬとは思わない。それを勘定に入れたら、私を裏切る気になるとは到底考えられないのだが。
 いや、待て。綾子は女だ、女であるが故に、損得勘定よりも一時の感情で走ってしまう事が充分考えられる。女が感情の赴くままに行動し、それが男の計算を狂わせた例、計算を拒んだ例は、古今東西枚挙に暇がない。最近、私の身の周りで起こった例は、他でもない、晴子が性覚を救おうとした事だ。謀叛人を、幼馴染の人であるというだけの理由で、自ら謀叛人に擬してまでその逃亡を助けた事は、打算で動く人間――貴族の男という人種は大半がこれに属す――には全く想像を絶する暴挙、いや、愚挙でさえあろう。しかし晴子は、恋に盲いて理性を喪失し、その挙に走った。その結果は――結果論である事は百も承知だが――晴子は一年半も養生する程の重傷を負い、天下に悪名を轟かせ、自身のみならず内大臣家の名をも地に堕せしめ、そうまでして救おうとした性覚は、木津の地で空しく死んだ。損得勘定でいけば、丸損、である。ただ、その丸損である事に、まだ誰も気付いていないだけだが。要するに、女とは、そのような事をやりかねない人種だ、という事だ。
 さて、そうすると私の対策は二つ、だ。一つは、綾子が晴子に寝返ったのであれば、いかなる手段を用いてでも、綾子の頭を私の方へ向き直らせる事。もう一つは、綾子が晴子に内通しているのなら、こちらの行動を綾子に洩らさないようにする事。その方法として、例えば岩倉の里の別荘――書き忘れたがあの別荘も、私が母から譲られた。その後修繕させて、今ではそこそこに小綺麗な別荘になっている――に、何か口実を設けて監禁してしまうとか、この邸に引き取るとしたら、北の対に軟禁して、寝殿へは一歩たりとも入らせず、勿論外部との通信は全て私が検閲する、という手もある。
 翌日、私は早速、綾子への文を書いた。書き出しは、晴子の態度の豹変に伴う綾子の立場の悪化に同情を示すような書き振りであったが、終りの方では、
〈本邸は近頃人が増えて手狭ですし、ここ数日は烏丸殿からこちらへは方塞りになります。洛北の岩倉の里に別荘があります、こちらなら新築ですし、手狭でもありません。そちらにならお迎え致そうと思います〉
と、暗に、内通者を本邸に入れる訳にはいかないぞ、との含みを持たせてやった。別荘と言っても、下京の方にあるのとは違って洛外の岩倉では、都の動静からは隔離されていると言っていい。そこへなら入れてやってもいい、と書いてやった含みに、気付くだろうか。
 翌七日、綾子から来た文には、女の身で洛外に一人住まいなど以ての外、落窪の一間でも構わぬ、本邸に入れてくれ、と切々たる文句が並べられていた。これを読んで、私の疑念は確信に変わった。綾子は明らかに、晴子に籠絡されて、私の本邸への潜入を図っている。その意図が、私の内部情報を晴子に流す事にあるのは、ほぼ間違いない。それにしても、どうやって晴子が、綾子を籠絡したのだろうか。買収すると言ったって、私がちらつかせた餌より大きく美味な餌を、晴子が持ち出せるとは思えないのだが……。
 翌朝、私はいつものように参内すべく車に乗り込んだ。車を門に向けて進ませていく途中、不意に車が停まり、門番の声がした。
「若殿様」
「何だ?」
「只今、若殿様にお目にかかりたいと申される御方の車が参りました。門の外にて、お待ち頂いております」
「どこのどなただ?」
「烏丸殿から参った、と申されております」
 来たぞ。私は思わず、拳を固めた。
「わかった。今日は、参内は止めだ。客人に会おう。その車を、お入れしろ」
「はっ」
 私は寝殿へ戻ると、急いで近江を呼んで言った。
「前から言ってた桜井宮の姫君が、急にお渡りになった。暫くこちらへ引き止めておくから、済まんが大急ぎで、部屋の支度をしてくれ。村雨や他の女房にも、手伝わせていいから」
 すると近江は、自信満々に胸を張って、
「部屋の支度は、もう整っておりますわ」
「えぇ!?」
 私が驚いて聞き返すと、近江は事もなげに微笑んで言った。
「先頃お話を伺いましてから、いつでも姫君をお迎えできるよう、準備万端整えて、お待ちしておりました」
 こういう事をやってくれるのが、近江という女房だ。感嘆の吐息をつきながら私は言った。
「つくづく、近江には頭が下がるよ」
「恐れ入りますわ」
と言いながら、満更でもない顔をしている。
「それじゃ、姫君を部屋へお通ししてくれ。もう少し経ったら、私が挨拶に伺うから、そう申し上げてくれないか」
「かしこまりました」
 近江が退っていくと、私は平服に着替えた。着替えてから、桔梗を先触れに立てて、早速ではあるが綾子に挨拶したいからそちらへ行くが宜しいか、と伝えさせた。
 幾らも経たずに桔梗は戻ってきた。
「姫様は、掛り人の身で若殿様にこちらへお越し頂くのは恐れがましいので、こちらから参りとうございます、と申されておいでです」
「いや、構わない。私の方から参ろう」
 私は立ち上がった。確かに、主人の方から掛り人となる者の方へ出向くのは立場が逆ではある。しかし、立場どうこうとは全く別の考えが、私の頭を支配していた。
 ――綾子に、この邸内をうろつかれては具合が悪い。これが私の考えだ。私は既に、綾子を味方としてではなく、寝返った者として認識していたのだ。
 桔梗に先導させて北の対へ向かいながら私は、ふつふつと胸に激る物を感じていた。今の私がすべき事は、寝返りつつある綾子を、どんな手を使ってでも私の方へ向き直らせる事、そしてもし、それが不可能ならば、――綾子の口を封ずる事、このいずれかである。握り固めた拳に一層力が入り、胸が高鳴ってくるのを感じた。
 北の対の、綾子に宛てがった部屋に入った。近江が前から準備万端整えていたというだけあって、部屋はきちんと整頓され、良く掃除されていて、掛り人を受け容れるに何ら不足はない。簾の向こうに、綾子が坐っている。脇に控えていた、桔梗よりもっと若い年格好の女房が、私達が来たのを見て慌てて立ち上がり、薄縁を広げて私の座を作ったが、よく見れば薄縁は裏返しだ。この女房は恐らく、烏丸殿で綾子付きだった和泉だろうが、まだ女房仕事に慣れていないようだ。
「綾姫、ようこそ、お渡り下さいました」
 桔梗や和泉の手前、いきなり本題を持ち出す訳にもゆくまい。私は手を突いて、通り一遍の挨拶を述べた。
「この度はお邸に掛り人となる事をお許し頂き、誠に有難うございます。帥宮様の御好意には、御礼の言葉もございません」
 綾子も、通り一遍の挨拶を述べる。その声は典雅この上なく――要するに、取り繕った声だ。
 私は振り返って、後ろに坐っている桔梗に言った。
「桔梗、私は姫に、折り入って申し上げたい事がある」
「はい」
 桔梗は心得顔で会釈すると、ついと立ち上がった。そのまま何も言わず、部屋を出て行く。桔梗は出て行ったが、和泉は坐ったまま身動きしない。
「姫。お人払いを」
 私の声に促されるように、簾の中から、
「和泉、お退りなさい」
 やっと和泉は立ち上がって、部屋を出て行った。和泉が出てゆくと、私は膝を進め、改めて綾子に向き直った。
「それにしても、急なお渡りでしたね。初めて烏丸殿へ文を差し上げてから、暫くお渡りの御意向が見られなかったのに、ここへ来て急に、ですから」
 綾子は、幾らかいつもの声に近づいた。
「差し上げました文に書きました通り、晴姫様は突然、私を追い出すと申されたのですわ。晴姫様は帥宮様を、深く憎んでおいでで、帥宮様と文を交わした私と、帥宮様の従者と文を交わした和泉迄も、有無を言わさず追い出しなさったのですわ」
 その追い出したというのが、晴子と綾子の組んだ芝居ではないかと、私は睨んでいるのだ。さり気なく、
「どうして私が、そんなに晴姫に憎まれるのでしょうかね」
 すると綾子は、私にかまを掛けられた事にも気付かず、さらりと言った。
「帥宮様が晴姫様に、あんな事をなさったからですわ。お腹を蹴り上げるなどという、ひどい事を」
 そら、言った! 私は低い声で、ぼそりと、
「――何故貴女が、御存じなのです?」
「え」
 綾子の声に、微かな動揺が走った。
 私は尚も突っ込んだ。
「三日の夜、貴女は東の対屋におられた筈。晴姫とは一晩中、別の対屋におられたのに、私が晴姫に何をしたか、何故御存じなのです?」
 綾子が扇を上げて、口元を覆ったのが見えた。私は一層冷厳な声で続けた。
「恐らく四日のうちに、晴姫は三日の夜私に何をされたか、貴女に打ち明けたのでしょう。しかし晴姫の事ですから、転ばされても只では起きなさる方ではない。貴女の同情を引くよりは、私が陰謀を企てているとか何とか言って、貴女に協力をお求めになった。きっとその折、自分に協力して私の弱味でも握れば、私の愛人の座を確保できるとか、そんな風にでも言ったでしょう、貴女が以前、私の愛人の座を目指す積りだと晴姫に申されたのを、晴姫が覚えておいでなら。違いますか?」
「わ、私には、帥宮様の仰言る事が、よくわからないのですが……」
 綾子はとぼけようとする。しかし、この動揺ぶりは、その通りだという事を示している。
「晴姫が貴女に何を申されたか、それはいい。問題は、ですよ」
 私は声に一層、力と凄味を加えた。
「何故貴女が、それを私に知らせて下さらなかったか、です。何ですか、この御文は」
と言いながら私は、三日前に綾子が私によこした文を、簾の下から差し入れた。
「晴姫が貴女を、味方と思い込まれて、作戦を打ち明けなさったなら、それに協力する振りをなさる事、それが貴女のお役目です。ですから貴女が、追い出された振りをして私の邸に乗り込まれたのが、晴姫の作戦に協力する振りをなさったのなら、それは別に構いません。しかし、貴女のお役目はもう一つ、晴姫の作戦を、一から十まで私に書き送る事、それを、よもやお忘れではありますまい」
「あ、あの……」
 綾子が何やら言おうとするところへ、私はおっ被せた。
「代筆だとでも仰言る積りですか。宜しい。なら何故、正面切って私宛にと出せる文を、代筆させる必要があったのか、納得のゆく説明を聞かせて頂きましょうか」
 綾子は黙っている。
「そうですか。代筆ではないのですね。貴女御自身の直筆だと、お認めになるのですね。ならばもう一度、お尋ねします。何故貴女は、私宛の文に書くと約束した、晴姫から聞き出した作戦を、その文に書かなかったのですか。正直に答えて下さい」
 簾の向こうにいる綾子は、身悶えせんばかりである。不意に綾子は、立ち上がろうとした。しかし私の方が一瞬早く、綾子の袖を捉えた。
「どうしました。納得のゆく答えを聞く迄、私はここを動きませんよ」
 綾子は、観念したように、力なく坐り込んだ。私は尚も強い口調で綾子に迫った。
「綾姫、もし貴女が何も答えないのなら、私は独自の判断を下すしかありません。私は以後、その判断に従って行動します。その意味はわかりますね。それを望まないのなら、貴女が私に対して果たすべき役目を故意に無視した理由を、私が納得するように説明して貰いましょう。さあ!」
 私は綾子の袖を掴む手に力を込めた。
 不意に綾子は、床に突っ伏した。掴まれていない方の袖で顔を覆い、肩を震わせてしゃくり上げている。これがもし本泣きなら、今はこれ以上詰問しても無駄だ。嘘泣きなら、もっと強気に絞め上げてもいいのだが、どのみち納得のゆく弁解は聞けないだろう。私は手を放し、肩をすくめた。
「宜しい。今日から私は、私の判断に従って行動します。それでもいいと貴女は考えた、と見倣します」
 それから侮蔑の色を少し潤ませて、
「そうそう、顔に墨を塗らないように」
(筆註「平仲物語」より、男が女を口説きながら涙を流してみせるのを、硯の水を顔に付けていると見破った女が、硯に墨を入れておいた話)
 私は扇を鳴らして桔梗を呼び、寝殿へ戻った。戻るが早いか清行を呼び、そっと囁いた。
「清行、どうやら綾姫が、寝返ったらしい」
「これはしたり!」
 大袈裟に驚く清行を、私は手で制した。
「まだ証拠を握った訳じゃないのだが、どうも不審な所がある。烏丸殿に内通している、との前提に立ってみる必要がありそうだ。だから清行、お前は綾姫と和泉に不審な動きがないか、見張ってくれ。もし綾姫が、私に内緒で文を出したりしたら、どんな手段を用いてでもそれを奪って、私に届けてくれ。文の内容によっては、寝返りの動かぬ証拠となるから」
「は」
「そうだな、もしかすると和泉は、綾姫の手下というよりはただ単に、ここへ来ればお前と一緒になれると思い込んで、綾姫について来ただけかも知れない。だから、和泉を籠絡して、こちらに引き込んでもいいな」
「和泉も、こちらへ参っているのですか」
 と言った清行の顔は、ほんの僅か、困惑したような色を見せていた。
「そうだが、何か?」
「あ、いえ、何でもありません」
 和泉がここにいる方が、清行にとって好都合な筈だが、そうではない何かがあるのだろうか。
 夜になって、さあ寝よう、と衾を被った途端、北面の方から何やら、ばたばた言う荒い足音が聞こえた。私は、がばと身を起こした。足音が止んだ、と思う間もなく、甲高い女の声が聞こえた。この声には聞き覚えはない。何事か。
「誰かある!」
 私は夜着のまま、烏帽子を被って立ち上がった。私の声に応えるように、簀子縁を走ってくる足音がすると、簾の外に膝を突いた者がある。
「強にございます」
「北面で、何か騒ぎが起こっているぞ。一緒に来てくれ」
 私は片手に太刀を握りしめ、ずんずんと北面へ向かった。強も続く。
 北面の一角から、灯が洩れている。数人の女の声が、入り乱れて聞こえてくる。私は光の洩れている戸を勢い良く開けた。
「何事だっ!?」
 私の一喝に、部屋にいる者達は一斉に振り返った。私は、さして広くもない部屋を見渡した。奥の方に清行、その背に隠れるように桔梗、手前の方では、村雨と少納言が、髪を振り乱してばたばた暴れる女を、抑えようと躍起になっている。女は私の声も耳に入らぬ様子で、激しく泣き騒ぐ。
「少納言、村雨、その女は誰だ」
 少納言は答えず、村雨が答えた。
「あの、今日、綾姫様と一緒にこちらへ来られた、和泉と申す女房の方ですわ」
 そうだったか。道理で声に、聞き覚えがないと思った。賊かも知れぬと思った私の緊張は、幾分緩んだ。
「そうか。しかし和泉も村雨も、曹司は北の対じゃないか。何でここにいるんだ?」
 村雨は申訳なさそうに首をすくめた。
「はい。あの、先刻、綾姫様がお寝みになられましてから、和泉さんが私の曹司へ来まして、同じお邸に奉公する女房同士、仲良くやって行きましょう、という事で、自己紹介ですとか、そういう話をしていたのです。そのうちに和泉さんが、烏丸殿にいた頃から壬生清行さんに恋文を貰っていました、今日からは毎日でも清行さんの顔が見られると思うと嬉しいです、と言いましたのに、私はついうっかり、清行さんは桔梗さんと、大分前から深い仲なのよ、と言ってしまったのです。そうしましたら和泉さんは、桔梗さんに問い質して来る、と息巻いて曹司を飛び出して行きましたので、事を荒立てないようにしようと、後を追って来ましたら、こちらの曹司で、丁度その、折悪しく清行さんと桔梗さんが……。それで和泉さんは、一遍に頭に血が昇ってしまって、清行さんに掴みかかったものですから、急いで近江さんと少納言さんを呼んで、掴み合いだけは止めさせようと」
 要するに痴話喧嘩だな。
「事情はわかった。村雨、少納言。和泉を北の対へ連れて行ってやれ」
「私も参ります」
 いつの間に来たのか、後ろから近江の声がした。振り返ると、近江と目が合った。私が黙って軽く頷くと、近江はずいと部屋へ入ってきて、今では暴れる気力もなくなって坐り込んでいる和泉の肩に手を載せた。
「お立ちなさい。北の対へ、参りましょう」
 私がついぞ耳にした事がなかった程、毅然とし、女房頭としての権威に満ちた声だった。少時ぐずる様子を見せた和泉も、やがてのろのろと立ち上がり、村雨と少納言に両脇を支えられて曹司を出て行った。和泉のしゃくり上げる声が、次第に遠ざかっていく。
「清行、話がある。こっちへ」
 と言いながら、奥に坐っている清行の方を見ると、足元に何枚か、桔梗の衣が脱ぎ散らしてある。私は咳払いして後ろを向き、曹司を出た。
「強は、もう退って宜しい。大儀であった」
 曹司の外にずっと立っていた強は、一礼して退っていく。清行が出てきたところで、私は曹司の戸を閉め、少し離れた簀子縁へ清行を誘った。
「こういう事だったのだな」
「面目次第もございません」
 清行は縮こまっている。
「お前を叱る積りはない。間が悪かっただけだ、誰のせいでもない。晩かれ早かれ、和泉にバレる事だったんだ」
 私は静かに言った。
「しかし、こうなると、和泉を抱き込んで綾姫を見晴らせる、というのは無理だな。綾姫は何しろ、あれだから、外から見張るだけでなくて、念には念を入れて内からも見張る必要があると思ったんだが」
「それでしたら、村雨では如何でしょうか」
 私は考え込んだ。
「村雨か。……それも考えたがな、あれは私にと言うより、綾姫に忠義立てしている者だろう? 綾姫が寝返った場合、和泉よりも先に、村雨を味方につける可能性があるんだ。だから村雨は、むしろ綾姫から離しておいた方がいい。村雨にまで寝返られたら、どう仕様もない」
 清行も黙り込んだ。
「他の女房を使うとしても、だ。綾姫には既に和泉がいるし、村雨も北の対に住んでいる事もあって、私付きというより綾姫付きのようなものだ。そこへもう一人、女房を付けてやると言ったら、綾姫の事だ、きっと勘ぐるぞ」
「はあ」
「今朝は少し、性急過ぎたな。今更後悔しても始まらんが。
 まあ、いい。この件については、私の判断で何とかしよう。清行は、二人に不審な動きがないか、見張りを続けてくれ」
「承知致しました」
「それから、今回の事とは別に、一般的にだが、両天秤は止めた方がいいと思うな」
「若殿様のお言葉、有難く拝聴致しました」
 清行の物言いは、明らかに本気ではなかった。私としても、本気で言った訳でもなかったが。
 翌朝、一日の予定や用件を近江と打ち合わせしている時、村雨が私の部屋へ来た。
「若殿様、宜しゅうございますか」
「何だ、村雨か。昨夜の事か?」
 昨夜の事は、村雨が不用意に清行と桔梗の関係を洩らした事から始まったような物だ。
 村雨は少時、気まずそうに口籠った。
「いえ、あの……綾姫様が、若殿様に申し上げたい事がございますので、こちらへ伺いたいと申されて」
「ちょっと待て!」
 私は居丈高に、村雨の言葉を遮った。
「は、はい」
 おどおどしている村雨に、私は語気を強めた。
「村雨は、誰付きの女房だ?」
「はい、あの、若殿様付き、です」
「そうだな。じゃ何で、綾姫の用事を言いつかってるんだ?」
「あの、……昨夜の事で和泉さんが、手が付けられない程落ち込んでますので、和泉さんの代りに、と綾姫様が申されましたので」
 私は尊大に胸を張った。
「女房の配属と転属は、女房頭の近江を通じて私に申し出、私が決める事に、ここではしている。近江」
「はい」
 近江も、自分の立場を明確にする機会と思っているのか、返事にも力が入っている。
「村雨の転属の事、何か聞いているか?」
「いいえ、初耳ですわ」
 私は村雨に向き直った。
「そういう事だ。和泉の代りがもし要るのなら、それは私が取り計らうから、それ迄は勝手な事はしないように。わかったな」
「……はい」
 村雨の声は消え入りそうだ。こうやって威圧しておいてから、私は一転して穏かな調子で言った。
「それで、綾姫が私に言いたい事がある、という事だったね」
「はい」
「こちらに来て頂くには及ばない。私の方から、そちらへ伺う、と伝えてくれ」
「でも、あの……」
 何か言いたそうな村雨に、私はぴしりと言った。
「私が言った通り、伝えれば宜しい」
「……はい」
 村雨は退っていく。私は立ち上がった。
「北の対へ行く。じきに戻るから」
「私も参ります」
「いや、近江は来なくていい」
 立ち上がろうとする近江を制し、私は部屋を出た。
 北の対の綾子の部屋へ行くと、和泉の代りに村雨が、私の席を作って待っている。薄縁は裏返しではないが、村雨が当然のようにこういう事をしているのが気に障る。
「わざわざお運び頂き、恐れ入りますわ」
 綾子の声は、またしても上品な声だが、これは取り澄ましていると言うよりは、身構えていると言った方が正しいだろう。
「客人に御足労願うのは、私のやり方ではありませんのでね」
 私も負けじと、取り澄ました声で答えた。敵方に内通している者に、寝殿に足を踏み入れられたくないのだ、とは言うまい。
「それで、何です、昨日の今日で私に仰言りたい事とは」
 綾子は村雨を退らせると、意を決したように、はったと私を見据えて言った。
「帥宮様は、私を、疑っておいでですのね、私が晴姫に寝返ったと」
 私は平然と答えた。
「有体に申せば、その通りです。しかしこれは、責任の大半は貴女に帰しますよ。一つ、貴女は故意に、私に疑われるような行動を取られた。二つ、その結果私が抱くに至った疑念を晴らす機会を、私は一度ならず二度迄も貴女にお与え申した、にも拘らず、貴女は私の疑念を晴らそうとなさらなかった。付け加えるなら、先刻貴女は村雨を遣わされましたが、少なくとも今この邸内に於て貴女付きの女房でない村雨を、貴女の私用に使われた事は、信義に悖る行為である、と申しましょうかね」
「信義に悖る? それは言いがかりという物ではございません?」
 綾子は精一杯、抗議を試みる。私は悠然と切り返した。
「言いがかり、とは異な事を申される。村雨は私が、私付きの女房としてこの邸に雇い入れ、女房頭の近江の配下に加えた者です、それ以前に貴女とどんな関係にあったとしても、今この邸内に於いては」
 綾子は、事の本筋とは関係ないような事とは云え、自分から言い出した以上引っ込みがつかなくなったのか、尚も喰い下がる。
「私が村雨を使いましたのは、元を正せば昨夜、あのような騒ぎが起こったからではありませんか。そのまた元を正せば、清行が桔梗とやらと深い仲にありながら、和泉に文付けしたからではありませんか」
 ここ迄来ると、詭弁と言うも愚かだ。私は含み笑いを洩らした。綾子は俄にいきり立つ。
「何が可笑しいんですの?」
 私は笑いながら、幾分挑発的に言った。
「それでは何ですか、貴女は私に、清行がどこの何という女とどういう関係にあるか、一々把握して、清行を監督せよと仰言るのですか。それを私が怠ったから、責任は私にあると仰言るのですか。それこそ、言いがかりという物。清行は、私の邸に出入りしているだけの者、私の下役でもなければ私の邸の使用人でもないのですよ、縦えもしそうだったとしても、相手は立派な大人、その私生活にまでは干渉できませんよ」
 これはあくまで建前だが、実際私は昨夜まで、清行と桔梗の関係は全く知らなかったのだ。
 綾子は、反論してくる様子はない。私は、
「もし和泉が、手が付けられない程落ち込んでいて、貴女の身の回りの事をする女房がどうしても要るというのでしたら、私が良いように取り計らいましょう。それ迄の間、臨時に村雨を使われる事は、今回に限り私が許します。女房頭には、事後承諾を取ります」
と恩着せがましく言っておいてから、矛先を転じた。
「さて、それはそうとして、本題に戻りましょうか。どうです、丸一日考えて御覧になりましたか?」
「考える? 何をですの?」
 まだ綾子は頭が熱い。
「貴女が晴姫に寝返られたと、私に思われたままで宜しいのか、という事ですよ。もしそれでも宜しいとお考えなのなら、私としても然るべき処置を取らねばなりません。手を咬みつつある犬を飼い続ける程、お人良しではありませんのでね」
 私は身を乗り出した。
「私は今、貴女に三度目の弁解の機会をお与えしているのですよ。そして、これが最後の機会、と考えられたが宜しい。もし私の思い込みが誤解なのだとしたら、そうだと弁明なさる機会は、これが最後ですよ」
 それから、少し口調を和らげた。
「晴姫がどう言って貴女に持ちかけて来られたのか、詳しくは知りませんがね、私の考える限り、私に与し続けられた方が、得だと思いますよ。もし晴姫と手を組まれて、私の邸に探りを入れに来られたのだとしても、残念ながら私は晴姫ほど甘くはありませんのでね、どこへなりとお引き取り願うしかありませんから。ここを出て、どこへ行かれます? 守実に泣きついて室町殿へ、何の戦果も上げられずおめおめと烏丸殿へ、それとも五条の荒れ邸へ?」
 綾子は呟いた。
「……甘くないと仰言りながら、私をこちらに留め置いて下さるのは、……」
 私は綾子の言葉を遮り、笑いながら言った。
「それは勿論、貴女には充分な利用価値があるから、ですよ。情にほだされたからだとでも、お思いになりましたか?」
 少時の沈黙の後に、
「どうやら、私の負けのようですわね。有体に白状致しますわ」
 綾子は、やっと腹を括ったらしい、さばさばした声で言った。
「初めからそうして頂ければ、良かったのですよ」
 綾子は、淡々と話し始めた。
 ――三日の夜、東の対屋で待機していた自分の所へ、晴姫が蒼い顔で這ってきた。小菊と協力して床を作ったり、公晴に命じて医師を呼びに行かせたりした当初は、所謂血の道かと思っていた。翌日の夜、晴姫が来て、昨夜の事を話し、帥宮に臓腑が破れそうなほど強烈な膝蹴りを入れられた、と言った。実際晴姫の腹には紫色の痣があった。晴姫は、こう迄されて黙ってはいられぬ、帥宮は、自分(晴姫)が女子を産む事を惧れている三条大納言派と手を組んで、もし自分が懐妊していたら流産させる積りで、こんな狼藉を働いたに違いない、だから帥宮の身辺を探れば、必ず何か出てくる筈だ、だから協力せよ、うまくすれば綾姫は、帥宮の愛人の座を獲得できる、と言った。それで自分は、帥宮の愛人云々はともかく、帥宮が晴姫に暴力を振るった事で、理窟ではない感情の領域で、帥宮には与し切れないと感じるものがあって、晴姫に寝返る気になったのだった――。
「でも、考え直しましたわ。帥宮様の弱味を握って、たかり続けるよりは、帥宮様の推挙を頂いて次代の東宮妃に参る方が、ずっと得策ですものね」
 綾子は、懺悔するような声で言った。
「それだけの判断力はお持ちの方の筈、と信じておりましたよ」
 と優しく声をかけながらも、内心では、まだまだ油断してなるものか、と警戒を怠らなかった。
「それにしても、解せませんね。あれ程私と手を組んで、共通の目標のために邁進しようと意気込んでおられた貴女が、どうして私が晴姫に手を上げた、いや足を上げたと申すべきですか、それだけの事で晴姫に寝返る気になられたのか」
 すると綾子は、幾分抗議するような声で、
「女性とは、子供を産み、慈しみ育てる者ですわ。その女性に、お腹にある子を流す事も厭わないような、そんなひどい事をなさったと聞けば……」
と言いながら、晴子にそうだと聞かされた時の衝撃を思い出したかのように口を噤んだ。
「そういうものですか」
 と素気なく相槌を打ちながら、内心舌打ちしていた。
 所詮、女とはこんなものだ。目的の為には手段を選ばず、最も確実な、或は最も安全な手段であると判断すれば、一切の感情を排してその手段を採用する、そこまでの割り切り方が、女というものにはできないのだ。冷酷非情に徹し切れない、それが女というものだ。
「まあともあれ、貴女が考え直して下されば、それで私も一安心できますよ」
 と、一見隙だらけの様子を見せてやって、私は部屋へ戻った。
 部屋へ戻ると、近江が私を待ち侘びていた。
「待たせたね」
「いいえ。綾姫様とは、何のお話でしたの?」
 近江がこんな事を尋ねるのは珍しい。やはり、私が綾子と直談判に及んだ事で、何事が起こるのか無関心ではいられなかったのだろう。だが、近江に事の枢要を知らせる積りはない。
「大した事じゃなかったんだ。昨夜の事でね、ああいう事が起こると、私としても善後策を何とかしない訳にもいかないから」
「左様でございますか」
 こう言って、それ以上何も言わない近江だが、果たして本当に私の言葉を全部信じているのか、それとも内心では疑っているのか、近江の顔を幾ら注意深く見ていても、私には全くわからない。これが近江というこの女房の、特技というか一種謎めいた所でもある。
「それで、女房の事なんだが、どうもあの和泉とかいう女房は、女房仕事にも慣れてないようだし、それに昨夜の件で打ちのめされてしまって、仕事どころでないらしいんだ。だから、暫くの間村雨を使わせてくれないか、と綾姫が申し出られてね。現状の追認ってことで、よしとしようかと思ったんだが、近江は、どう思う」
 村雨を正式に綾子付きにしてしまうのは、確かに両刃の剣ではある。しかし、私が綾子への疑いを解いた、と思わせるためには、他の女房を付ける訳にはいかない。今は多少の危険を冒してでも、韜晦策を取るべき時であろう。
「そうですわねえ……。まあ、差し支えないと思いますわ。ただ、あくまで暫く、という事にして頂かないと、和泉とやらを甘やかすのは困りますわ」
 近江の言う事は、私の策略とは全く別の所から出ている。働かない和泉に無駄飯を食わせる訳にはいかないという、いかにも家政を預る女房頭らしい発想だ。
「和泉が早く立ち直るかどうか、それは私や近江が心配したって始まるまい。それじゃ、村雨を暫くの間綾姫に貸すという事で、異存はない訳だ」
「はい」
「じゃ、村雨を呼んできてくれないか」
「かしこまりました」
 近江はすぐに、村雨を連れて来た。私は村雨に、暫くの間綾姫の身の回りの仕事をする許可を出した事を伝えた。
「先刻は済まなかった。ただ、物事のけじめは、きちんとつける必要があるから」
 こう言った私の真意に村雨は気付かず、
「いいえ、今朝の事は、少しも気にしておりませんわ」
 最初に威圧し、次に懐柔する、これも人を従順にする方法の一つだ。
 私は近江を退らせてから、村雨を近く招き寄せて言った。
「さて、村雨、綾姫付きになるお前には、一つだけやって貰わねばならん事がある」
「はい」
「これは絶対に他言無用、和泉は勿論、綾姫にも決して言ってはならんぞ」
 村雨が唾を飲み込む音がした。
 私は声をひそめた。
「綾姫が、私に内緒でどこかに文を書いていたり、どこかから文を受け取ったりしておられたら、逐一私に知らせるんだ。わかるか? 要するに、綾姫を見張れ、という事だ」
「綾姫様を……?」
 村雨は、思いがけない事を言われて、理解できないでいる。
「そうだ」
 私は綾子とのやり取りを簡単に村雨に説明した。
「……と綾姫は仰言っていたが、それを鵜呑みにする程甘くはないからな、私は。念には念を入れて、綾姫を見張る事にしたのだ」
「……あの、私には、綾姫様が若殿様を裏切って、晴姫様に寝返ろうとなさったというのが、信じられないんですが」
 村雨は的外れな事を言う。私は力説した。
「信じられようが信じられまいが、綾姫御自身がそう仰言ったんだから、間違いなかろうが。だから私も、それなりの対策を立てなければならんのだ」
「……でも、どうして私を」
「他の者にやらせると、どうなるかわかるか? 桔梗は和泉と一騒動やらかした後だから論外として、近江でも少納言でも、『やはり帥宮様は、私を疑っておいでだ』と、綾姫は必ずお考えになる。それじゃ駄目なんだ」
「あの……私……」
 渋る村雨に、私はドスを利かせた。
「嫌だ、と言う気か?」
「い、いえ、あの……」
 村雨はしどろもどろになりながら、
「綾姫様は私に、姫様と帥宮様の御計画のために、全力を挙げて働きなさい、もし少しでも手抜きしたら、身ぐるみ剥いで叩き出す、と仰言いましたのに、もし私が綾姫様をお疑い申しているなどと思われたら……」
 私は一転して穏かに言った。
「そういう事を心配していたのか。いいか、私が今推し進めている計画は、私が中心なんだ。村雨は、その計画、私の計画に協力すると約束した、そう私は考えていたぞ。だから、もし仮に綾姫が私を裏切って、晴姫の計画に加担されていたとしても、村雨は私の計画に協力すれば、それで良いのだ。もしその結果として、お前が綾姫に睨まれたとしても、心配には及ばない、私が責任を持って面倒を見てやる。今この邸内では、お前を雇っているのは私であって、綾姫ではないのだから、綾姫がお前をどう思われたところで、お前をここから叩き出す権利はどこにもないのだ。わかるか?」
 村雨は少時黙り込んだ。ややあって、
「……わかりました。私も若殿様に恩義ある身、お受け致しますわ」
 私は力強く頷いた。
「そう言ってくれるのを待っていたぞ」
 そうは言ってもこの村雨という女房、どうも何事によらず自信が乏しそうで、今一つ安心して任せ切れないところがある。綾子に対する牽制として、どこ迄使えるだろうか。
(2000.12.8)

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