差別について 〜古い手紙から〜

ずいぶん久しぶりの雑文です。題名からして非常にデリケートな問題を扱うことになりそうですが、内容的には、ずっと前に実家の両親に宛てて書いた手紙を再録しただけで、問題の核心に迫るには程遠いかもしれません。
それでも、番外日記という人目につきにくい場所に公開するよりは、と思うところがあるので、ここに公開します。
手紙を出したのは、第1信が平成9年(1997年)11月、第2信が同年12月です。
 夕暮れ近くなって大阪城を出て、最寄りの地下鉄の駅まで歩こうとすると、労働組合の「部落解放推進委員会」の立て看板を見ました。神奈川県の新興住宅地に住んでいた頃には現実の事とは感じていませんでしたが、西日本の方では今でもまだ被差別部落問題はかなり深刻なようです。大阪に実家があるという職場の人が言うには、今でも結婚や就職に際して、出身地を字まで調べることが行われているとか、「地名総鑑」なる被差別部落一覧書が地下で流布しているとか、あるいはそうした部落出身者を採用している企業には暴力団がまとわりついている(部落出身者自身が暴力団員というわけではなくて)とか、民主国家を標榜する国にはふさわしくない事どもがまだまだあるようです。部落解放運動は大阪あたりで最も盛んなように見受けましたが、立て看板が名を挙げていた「狭山事件」は関東の事件であり、藤村の「破戒」が長野県を舞台にしているように、東日本でも決して少なくないのかもしれません。新潟県ではあまり表面化していないのでしょうか、地元の人は、被差別部落という意味合いを全く持たずに単なる「村落」や「集落」という意味で「部落」という言葉を何気なく使っています。それが大阪から来た人には、とても無神経な物言いに聞こえると言っていました。
 大阪と「差別」に関してふと思ったのは、日本人同士での差別もさる事ながら、大阪あたりは在日朝鮮・韓国人が相対的に多い地域でもあるらしいですから、その辺りの差別問題も相当深刻なのではないだろうかという事です。これは実際にそれを訴える立て看板などを見たわけではなく、漠然と想像しただけですが。
(ここまでが第1信)

 10月の高知出張の帰りに大阪に立ち寄っていった時、同和問題について考えさせられたことを、前回の手紙の最後に書きましたが、折しも11月の末に高田の図書館で、同和問題を中心とする各種の差別問題に関する巡回展示があったので、新潟県の同和問題について認識を深める一助にしようと見に行きました。
 新潟県の同和問題は、関西ほど顕在化してはいないだけで、同和事業の対象とされた地区もかなりの数にのぼるようです。ただその地区は、関西に見られたような大きな集落になってはいず、戦前の調査時点でほんの数戸しかなかった地区がかなりの数を占めていたそうです。新潟県の特徴として、よく言われているように皮革加工に従事する家が多かったというのは当てはまらず、「渡し守」が多かったそうです。今では廃村となったものも多いのですが、川縁の非常に狭い場所に数戸の小さな集落があって、それが被差別部落とされていた例が多数あったと展示されていました。
 こうした部落差別の解消に向けた運動が最も盛んになったのは、実は戦時中でした。その頃に融和事業(戦前は「同和」でなくて「融和」と言いました)の推進に当たった行政官の文章が展示されていましたが、「侵略戦争遂行を前提とした思想構造に問題は大きいが」とパンフレットにあった文章で、至る所伏せ字だらけで何が言いたいのかよくわかりませんでした。この時に被差別部落があるとして融和事業に当たった自治体は53市町村153地区あったそうですが、戦後同和事業が本格的に再開された時、同和地区に指定されたのは15町村20地区に過ぎなかったそうで、戦災をそれほど受けなかった新潟県下で残りの集落が跡形もなく消滅したとは思えず、昔から被差別部落であると周囲から見られ、戦前には行政が被差別部落であると認めた集落を、戦後の行政が無視したのが大多数でしょう。現に、住環境の劣悪さの実例として会場に写真が展示されていた(具体的にどこの集落かは特定できないようにしてありましたが)集落には、同和地区に指定されていない集落が多数ありました。
 さらに、同和地区の指定と各種の事業は県が行うのですが、県が指定したその20地区のうち、4町村5地区は地元町村が同和地区の指定を返上したという、事勿れ主義の極致のような話があります。町村の中に同和地区があると、それこそ火葬場やごみ処理場ではありませんが、その町村のイメージが悪くなるというのでしょうか。岩船郡神林村で、行政による同和地区指定は行われていないが歴史的に被差別部落だったのが明白な集落への、同和対策事業特別措置法に基づく融資申請の受理を求めた行政訴訟があり、昭和63年に集落住民勝訴の判決が出たのを、新潟県部落解放運動史上に特筆すべき出来事とうたっていました。
 ただ、その判決の中に「大多数の住民(被差別部落の住民も含めて)が望んでいないのを理由に、少数の住民が不利益を蒙るのを見て見ぬふりをしてはならない」という趣旨の文言があったのには、ちょっと首を傾げたくなりましたが。これを逆に言うと、被差別部落の少数の住民のために同和地区指定や対策事業が行われることになって、他の大多数の住民が「神林村には被差別部落がある」とか、場合によっては「あいつの部落は被差別部落だ」と陰口を叩かれてもそれは我慢しろ、という意味になるのではないか、と思わないでもありません。人種差別の暗い歴史を持つアメリカで、黒人を初めとするマイノリティーに対する優遇措置が行きすぎた逆差別だとして揺り戻しを始めている事例とも考え合わせて、少し考えさせられます。
 新潟県下でも、実は部落差別にかかわるような事件は思い出したように起こっているといって、そうした事件についての展示もありましたが、どういう事件が多いかというと、高校ぐらいの学校で教師が不用意な発言をして、その片言隻句を捕らえて同和団体が騒ぎ立て、教師に自己批判させるという経過をたどることが多いのです。関西の方ほどには同和問題が深刻でないのが災いして、教育現場での同和問題に対する問題意識が稀薄なのが、こういう事件が跡を絶たない理由だといっています。しかし、現実に発生した差別的言動を捕らえて「糾弾する」というのがかつての全国水平社の基本戦術だったのが今も尾を引いているのかも知れませんが、二言目には「糾弾」だの何だのと言っていると、世上悪名高い「えせ同和団体」と同じように、「同和は怖い、同和にかかわり合うとろくな事にならない」という意識を蔓延させることにならないかとも思います。会場に展示されていた、狭山事件の支援闘争を行っている団体の文書を見ても、感情失禁というか、大学時代にキャンパスに溢れていた学生自治会の宣伝ビラを彷彿とさせる文言ばかりで、穏健な一般市民をかえって遠ざけてしまうような気がします。
 それから、同和問題に限らず社会に存在する差別の例として、共学の学校での男女別名簿を取り上げていましたが、こういうところで男が先で女が後なのが女性差別だと言うのは、どうもためにする議論のような気がします。それなら女が先で男が後なら文句はないんだな、というのでは子供の喧嘩ですが、江戸時代の悪習の残り滓であって今の時代には全く合理性のないのが誰の目にも明らかな部落差別、あるいは帝国主義・植民地主義時代の偏見に基づく在日朝鮮・韓国人差別と、これとは少し次元が違う気がします。男女別名簿は、ある程度の合理性を持った区別であって差別ではない、と言えるのかどうか、中学高校と男子校にいた自分には判断を下すことが難しいので、他の人に問題提起をしておきたいと思います。
(2004.2.23)

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