双子の姉妹(「みさかかおり」余談)

4号館で公開した「みさかかおり」のことを、ここで長々と語るのも何ですが、とりとめもなく考えたことがあるので書いてみます。
当サイトを頻繁にご覧になっているらしい方のウェブ日記で、「みさかかおり」の問題編を公開してから解答編を公開するまでの間に「みさかかおり」のことが触れられていたのに気がつきましたが、その方は「双子あるいは留年ネタは、推理小説では佃煮にするくらいあるので、きっと、いや絶対に違うと思う」というように推理されていました。
私が使ったトリックには留年ネタが含まれていますから、その点に限ってもこの方の予想を上回る作品は私には書けなかったわけで、やはり一時の思いつきだけで「小説」と呼ばれるに値する物は書けるものではない、と悟ることになりました。

さて、推理小説では掃いて捨てるほどあるとされる双子ネタは、私も気になってネット検索をいろいろやってみたところ、こんなのが見つかりました。ずいぶん昔の1928年にロナルド・ノックスという作家が「探偵小説十戒」として提唱したものですが、その第10戒はこうです。
双生児や変装による二人一役は、予め読者に双生児の存在を知らせ、又は変装者が役者などの前歴を持っていることを知らせた上でなくては、用いてはならない。(出典によって文章は多少異なる)
第1戒から第9戒までも、「それはごもっとも」と思うものから「今そんなこと言ったら外交問題になるよ」と言いたくなるものまでピンキリですが、時代錯誤に感じられる物であっても、それはその当時の二流、三流の推理小説があまりにも安直にそのトリックを使っていたことに対する批判の意味も込めて提唱された、と考えるべきだと思います。
つまりそうやって陳腐なトリックの代名詞として槍玉に挙げられるぐらい、双子ネタは使い古されているということですが、そこで西村京太郎氏の長編『殺しの双曲線』(1971年)では十戒に則ってご丁寧にも冒頭で「この作品のメイントリックは、双子を利用したものです」とネタバラしをしているそうです。それでいながら今でも名作と評価が高いらしいですから、やはりプロの作家は違うものだな、と。

で、ここからやっと本題に入る(文章を簡潔にまとめる能力なさすぎる私)のですが、「みさかかおり」の構想段階では双子ネタを使うことも考えていました。その1つは、長女の佳織と次女の栞が1981年2月1日生まれの双子で、後に三女となる香里は1982年3月1日生まれ、という案でした。
同じ母親から9ヶ月後に子供が生まれるという医学的に相当不自然な設定を持ち込んでまで双子ネタを止めたのは、双子ネタではない佳織は1980年5月5日生まれ、栞は1982年2月1日生まれ、香里は1982年3月1日生まれ、という案を没にしたこととも関係があるのですが、
「双子、あるいは生年月日が非常に近い従兄弟姉妹が、長幼の順を意識するだろうか?」
という疑問が払拭できなかったからです。
「みさかかおり」の本文に即して言うと、第1案の場合、栞が、実年齢に全く差がない佳織のことを「私のお姉ちゃん」と祐一に言うだろうか。第2案の場合、香里がわずか1ヶ月年長であるにすぎない栞に「栞お姉ちゃん」と言うだろうか、ということです。
目下プレイ中の「月姫」にも、琥珀と翡翠という双子の姉妹が登場します。この2人は、琥珀から翡翠へは「翡翠ちゃん」翡翠から琥珀へは「姉さん」と、互いに呼ぶだけでなく他の人物に対しても言っているように、明確に長幼の順を意識しています。他に手元にあるゲームを眺めてみると、古いところで「野々村病院の人々」の牧野梨恵と智恵、「ドラゴンナイト4」のメイフェアとクラリス、もう少し新しいところでは「青空」の松倉明日菜と藍、「真・瑠璃色の雪」の園村双葉と若葉、といったところがいます。牧野姉妹、メイフェアとクラリス、園村姉妹はそれぞれ先に名を記した方が姉という扱いになっていますが、琥珀と翡翠ほど明確には長幼の順を意識してはいないと思います。松倉姉妹はまだわかりませんが(何しろゲームそのものが全く手つかずなので)、マニュアルの登場人物紹介にどちらが姉とも妹とも書いてないくらいですから、長幼の順の意識はかなり薄いのではないかと思います。
なんで長幼の順にこだわっているかというと、これは実際に歳の近い兄弟姉妹をお持ちの方はよくおわかりかと思うのですが、長幼の順、言い換えれば兄弟姉妹の中での位置は、その人の人格にかなり大きな影響を与えると思うからです。そして人格に影響を与える要素としては、生物学的に年齢の異なる近親者がすぐ近くにいるという現象それ自体よりも、むしろその人と兄弟姉妹に対する親の接し方のほうが大きいのではないかと思います。
喩えとして適切であるかどうかわかりませんが、人格に影響を与える要素として、兄弟姉妹との年齢関係それ自体と、兄弟姉妹のいる子供に対する親の育て方とは、前者が生物学的な性(sex)、後者が社会的な性(gender)に似た関係があると思います。
わかりやすい例──ご自身が兄弟姉妹のいちばん上で、下に弟や妹がいる方なら、きっと身に覚えがあると思いますが、小さい頃に弟妹と何かある度に「お兄ちゃん(お姉ちゃん)だから」というだけの理由で我慢を強いられたことはありませんか? そういうことが何度もあったと、兄は今でも私と妹に言いますよ。
一人ずつ生まれた兄弟姉妹で、生物学的な年齢が1年以上違っているなら、「弟(妹)は幼いのだから」とかなんとか理由づけして納得できるかもしれません。しかしこれが双子で、この世に存在している時間に数十分の差しかないとしたらどうでしょうか? 数十分の差で兄(姉)とされた双子の片方にとっては、これは生涯最初かつ最大の不条理となるかもしれません。何年も生きてくれば最初の数十分なんて完全に誤差の範囲に入ってしまうでしょうに、それが何年経ってもその人を制約し続けるとしたら。

ゲームの登場人物として双子が出てくる場合、長幼の順を意識している設定になっているかどうかを重視したいのは、長幼の順を意識しているとした場合、それが双子のそれぞれの性格だけでなく思考様式や行動原理、ひいてはシナリオを左右することがあり得るからです。
上に挙げたタイトルを例に取ると、牧野姉妹、メイフェアとクラリスは、性格の差はかなり極端ですが長幼の順とは別のレベルにあり、そして長幼の順の意識がシナリオを左右してはいません。園村姉妹は、性格の差がいくらかは長幼の順に帰せられるでしょうか、残念ながらシナリオの先が見えるところまでプレイが進んでいません。松倉姉妹はコメントできません。
そして琥珀と翡翠は──ここまで来てネタバレ防止のために曖昧にしなければならないのは辛いのですが、長幼の順の意識がシナリオの根幹に関わってきます、はっきりと。発端となる出来事が琥珀の身に起こったことはきっと偶然だと思うのですが、琥珀はそれを「自分は姉だから、翡翠には及ぼしたくないから」受け容れる、そこから物語が始まるのです。
(ここまで2002.6.20公開 6.24改訂)

この雑文を公開してから、1年と8ヶ月が経ちました。その間には「青空」も「真・瑠璃色の雪」もコンプリートしましたし、そして「みさかかおり」そのものも改訂版を公開するに至りました。そこで、「みさかかおり」を改訂した部分とコンプリートした2つのゲームにかかわる部分について、ネタバレを含みますが多少の補足を行います。
まず「みさかかおり」を改訂した部分ですが、子供を出産した母親が9ヶ月後に次の子供を出産するという、医学的にあまりにも不自然な設定は、ちょっと考え直しただけで解消しました。「みさかかおり」の改訂版はこちらです。
他のゲームに登場する双子の姉妹についてです。園村双葉と若葉は、性格の差が長幼の順にかなり影響を受けている、つまり自由奔放な妹(若葉)に対して双葉は優等生の姉を演じて(演じさせられて)いる、というのがはっきりしています。そして双葉のシナリオは、双葉が演じていた仮面を脱ぎ捨てて、素顔の自分の人生に踏み出すのを、主人公が後押しするという、青春ドラマの王道的なストーリーになっています。
これに対して松倉藍と明日菜は、性格の差と長幼の順はほとんど無関係です。むしろ妹とされている明日菜の方が、両親がいない間に店番をちゃんと務めるなど、性格的にしっかりしている面もあります。
松倉姉妹に特徴的なのは、松倉姉妹は、他の姉妹がそうであるところの「外見が酷似している」──これは取りも直さずその姉妹が一卵性双生児であることを示唆しますが、それを強調していません。髪の長さは違いますし、のみならず明日菜は眼鏡を掛けていて、むしろ2人の外見的な違いを殊更に作り出しているようにすら見えます。その結果として、一卵性双生児が登場するシナリオではおなじみの「2人が入れ替わって主人公を幻惑する」という局面は皆無です。
このような「酷似していない双子」というのは、私が知る範囲ではアメリカ映画「ツインズ」のような(あれは極端すぎますか)例を除くと、ゲームやドラマではむしろ珍しいのですが、逆に言うと他のゲームやドラマに登場する双子というのは、外見が酷似した一卵性であるのが普通なようです。それはやはり、たとえ陳腐すぎて「こんなトリックはダメ」と言われようが、一卵性双生児が入れ替わって主人公(プレイヤー)を幻惑するトリックが、シナリオライターにとっては使いやすい素材だからでしょう。それと、もしかすると──外見が酷似した一卵性双生児だということにしておけば、キャラクターの原画が使い回しできるし俳優・声優も1人で済む、という制作サイドの「大人の事情」があるのかもしれません。
(2004.2.23補足)

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