夏の風物詩
制作者 夕凪様 拝受 2004年11月20日

この作品は、2000年8月に「桂芳恵精神病棟」に寄贈されました。「桂芳恵精神病棟」の閉鎖に際して、管理者桂芳恵さんと作者夕凪さんのご希望により、当サイトでお預かりすることになったものです。

<夏の風物詩>

 季節が移ろいでいた。

 寒かった冬は終わり…
 新緑の清々しい春も過ぎ…
 そして…
 静かな夏が、訪れていた…。

「さて、夏と言えば……」
「たい焼きっ!」
「肉まんっ!」
 元気のいい声が返ってきた。が、俺はそちらを見ることもなく、
「却下(一秒)」
「うぐぅ……」
「あぅ……」
 たい焼き娘と肉まん娘を沈黙させた俺はもう一度繰り返す。
「さて、夏の食べ物と言えば……」
「アイスクリームですね」
「ぴんぽーん。美坂栞さん、大正解!」
 大声で拍手喝采の俺に栞が少し照れたように頬を赤く染めた。
「正解者の栞さんには、もれなく特製アイスクリームをプレゼント!」
「わー、嬉しいですー」
 満面の笑みを浮かべる栞。
「どんなアイスクリームなんですか?」
「……は?」
「特製アイスをプレゼントしてくれるんですよね」
「……いや、それは……」
 突然の問いかけにうろたえる俺。
 実は何も考えていなかった。単に調子よく口から出るに任せただけだった。
 しかし栞はにこにこと満面の笑みを湛えて、
「楽しみですー」
「……あの、その……」
「とっても楽しみですー」
「……」
「ものすごく楽しみですー」
「……分かった……」
「祐一さん、大好きですー」
「……」

 と言うわけで。
 栞の笑顔の脅迫(?)に負けた俺は……
 唐突に窮地に追い込まれてしまっていた。

 特別なアイスって、どんなアイスなんだろうか……?


 ☆


 取り敢えず俺はコンビニに向かった。
 百円アイスで栞が納得してくれるとは思えなかったが、そんなに金の持ち合わせがないことも事実だった。
 実際、今日はただの散歩の予定だったので財布なんか持ってきてないし……。
 思えば商店街であゆにぶつかったのがケチの付き始めだったのかもしれない。更に尾行している真琴を発見、撒こうとしている間にとうとう遊歩道まで来てしまい、そこで栞に遭遇してしまったのだ。
 あの冬以来の遭遇率だった。
「ねぇ、どんなアイス奢ってくれるの、祐一?」
「ボク、たい焼きアイスでいいよ」
「……どうして真琴とあゆまで付いて来てるんだ?」
「祐一さんが私に負けたからですよ」
 いつ勝負になったんだ、栞?
 それに栞に負けるとどうしてあゆや真琴にまでアイスを奢らなきゃならんのだ?
「楽しみですー。ね、皆さん」
「うんっ」
 栞の問いかけに、二人が笑顔で頷いた。
 とても一秒で却下できるような雰囲気ではなかった。
 俺は観念してポケットの中の小銭を数えてみた。
(……俺の分は買えそうにないな)
 内心で溜息をついた、その時だった。
「あーっ、祐一さんだーっ」
 不意に、素っ頓狂な声が聞こえてきたのは。
 反射的に、声のした方に目を向ける。
「ぐあ……」
 なんでこんな所に佐祐理さんと舞が……。
「あははーっ、こんな所で会うなんて奇遇ですねーっ」
「ど、どうしたんですか佐祐理さん、こんな所で」
「それが、舞がどうしてもアイスクリームが食べたいって言うもんですから」
「……はちみつくまさん」
「ぐは……」
 ここでもアイスクリームか。
 俺はふと嫌な予感を抱いた。
「そういう祐一さんは、皆さんとお散歩ですか?」
 俺の後ろに続く三人を見ながら、佐祐理さんが聞く。
「まぁ散歩と言えば散歩なんですが……」
 マズイ。
 ここでアイスを買いに行く途中ですなんて言おうものなら……。
「私たちもアイスクリームを買いに行く途中なんです」
 うぐっ。
 栞、何故それを言ってしまうんだ!?
「わぁ、奇遇ですねーっ」
 事態は俺の予想通り最悪の方向へと進もうとしていた。
「それじゃあ、みんなで一緒に買いに行きましょう」
「あ、あの、佐祐理さん……」
「舞も、祐一さんたちと一緒の方がいいよねーっ」
 相変わらず無表情の舞に佐祐理さんが明るく訊ねる。
 頼む、舞、ぽんぽこたぬきさんと言ってくれ……。
「……はちみつくまさん」
 連れは三人から五人に増えた。


 ☆


「それで、取り敢えずどこに向かってるんですか?」
 佐祐理さんの問いかけに、俺は短く答えた。
「取り敢えず家へ戻ります」
「はぇ?」
 こうなったらヤケだ。
 アイスでもたい焼きでも肉まんでも何でも買っちゃる。
 だがその前に家に戻って財布を取ってこなければならない。
 俺はこれ以上誰にも会わないように早足に家へ向かっていた……と、速度を落とさずに角を曲がった瞬間、向こうから来た誰かにぶつかりそうになった。
「きゃっ」
「わっ、すいません……って、あ、天野っ!?」
 ぶつかりそうになった相手は下級生の天野美汐だった。
「あ、相沢さん。こんにちは」
 礼儀正しく天野が挨拶をする。何故か制服姿だ。
「どうかしたんですか? 慌てて歩くと危ないですよ」
「いや、その……」
「もー、祐一っ! どうしてそんなに早足で歩くのよーっ!」
 後ろから真琴の声が聞こえてくる。天野の表情が微妙に変化した。
「真琴……」
「あっ、美汐ちゃん!」
 真琴の声が弾んだ。真琴は自分の大親友のことをちゃん付けで呼んでいた。
「ねぇ、美汐ちゃんも一緒にアイス食べよ! 祐一が奢ってくれるんだって」
 いつの間にか奢ることになっていた。
 天野が怪訝そうな表情で俺の顔を覗き込む。
「本当なんでしょうか? 相沢さん」
「ああ……」
 真琴の楽しそうな表情を見ると、無下に否定できなかったりする。
「実はそうなんだ。天野も一緒に来るか? 大したアイスは奢れないけどな」
 天野は一瞬考えるように目を逸らしたが、すぐに微笑んで、
「……それでは、お言葉に甘えまして」
「わーいっ!」
 真琴が天野の腕に抱きつきながら喜んでいた。
 そんな風に、純粋に喜びを全身で表現している真琴を見ると、
(ま、いいか)
 と思えてしまうのだった。
 俺は再び歩き出した。
 ……しかし冷静に考えたら全然よくなかった。
(いかん! これ以上誰かに遭遇したら、俺の小遣いは全滅だ!)
 主要登場人物で今ここにいないのは誰だ?
 香里。あと北川。
 ……大丈夫だ。あの二人となら街で遭う可能性は少ない。
(だが、状況が状況だ……)
 何しろ滅多に遭遇するはずのない天野とさえ遭遇している。
(ここは慎重に、大通りは避けて裏道を行くべきだな)
 大勢を引き連れて、早足に、しかし慎重に歩く。
(誰かに遭遇しないうちに、早く家にたどり着かねば)
 そして……何とか誰にも遭わずに、水瀬家の屋根がようやく見えてきたとき、
「うっ」
 俺は思わず呻いていた。
 門の前に、誰かが仁王立ちになって待っていたのだ。
「か、香里っ! 何故こんな所に……」
「あら、相沢君、遅かったわね」
 香里は挨拶もそこそこにそう切り出した。
 ちょっと待て、遅かったとはどういう意味だ?
 まるで俺が家に戻るのを知っていて、それを待ち伏せていたような……
 はっ!
「……まさか」
 俺は栞を振り返った。
 栞はにっこりと微笑んでトランシーバーを取り出し、
「せっかくですから、お姉ちゃんも一緒にと思いまして」
「だぁーっ、いつからお前らそんなに仲良くなったんだっ!? しかもどうして携帯電話じゃなくってトランシーバーなんだっ?」
「トランシーバーは通話料がかかりませんから」
「それに相沢君。いつから、とは心外よ」
 香里は少し俯いて、
「わたしは栞のことをずっと心配してたんだから。昔からずっと……もちろん今も妹を思う気持ちに変わりはないわ」
 その言葉に瞳を潤ませる栞。
「お姉ちゃん……っ!」
「栞……っ!」
 ひしっ、と抱き合う姉妹。
 その背景に夕焼けが見えたような気がしたのは、たぶん目の錯覚だろう。
「ううっ、感動的だなあ……。そう思わないか、相沢?」
「ああ、そうだな……ってどうしてお前までここにいるんだ北川ぁ!」
 思わず叫ぶ俺に向かって北川はさも心外だと言わんばかりに、
「何を言っているんだ。美坂と俺は切っても切れない絆で結ばれているんだぞ」
 振り返った香里が無言でハサミをちょきちょきするジェスチャーを見せると、北川は少し悲しそうだった。
「それで相沢君、当然私たちにもアイス奢ってくれるんでしょ?」
「……ああ、奢ってやるとも!」
 完全にやけっぱちになって俺はそう頷いた。
 これは運命だ。
 今日、俺の小遣いは全滅する定めにあったのだ。
 くそっ、こうなったら名雪も誘ってみんなで百花屋にでも行ってやるっ。
 そんなことを決意しながらドアを開けると……
「わっ」
 玄関で靴を履こうとしていたらしい名雪がびっくりしたように俺を見上げた。
「お、名雪、ちょうどいいところに」
「どうしたの?……わ、いっぱい」
 俺の背後に群がる総勢八人を見て名雪が目を丸くする。
「今からみんなでアイスを食べに行こうと思うんだが、名雪も一緒に来ないか?」
「えっ? アイス食べに行くの?」
「ああ、そうだ」
「……アイスクリームですか?」
 声を聞きつけたらしい秋子さんがキッチンから出て来た。
「お帰りなさい、祐一さん」
 そう俺を出迎えてから、
「アイスクリームだったら、たくさんありますよ」
「……はい?」
「お母さんね、アイスも手作りなんだよ」
 思わず首を傾げた俺に、名雪がそう説明する。
「いろんな種類があるんだよ〜」
「趣味ですから」
 秋子さんが頬に手を当てて微笑む。
「いいんですか?」
 訊いてから、俺は後ろを手で示し、
「たくさんいるんですけど……」
「大丈夫よ。たくさんありますから」
 秋子さんはそのつもりのようだった。
「それじゃ、お言葉に甘えて…」
 俺は突然降って湧いたこの幸運に思わず小躍りしそうになった。
 良かった。
 これで俺の小遣いは壊滅の危機を免れたわけだ。
 それに、秋子さんの手作りアイスならきっと美味しいに違いない。
 うん、きっと栞も納得してくれるだろう。他のみんなも。
 俺は満面に笑みを湛えて皆を家に招き入れた。

 そこに何が待ち受けているのかも知らずに……。


 ☆


 ダイニングに集まった一同がどよめいた。
 テーブルの上には、色とりどりのアイスクリームがお皿に盛りつけられ、整然と並べられていた。
「さあ、どうぞ」
 全部、秋子さんの手作りアイスクリームだ。
「遠慮しないで食べてね」
 その言葉を合図に、スプーンを片手に待機していた全員が一斉にテーブルに殺到した。思い思いの皿を手に取り、盛りつけられているアイスクリームをすくって、食べる。
 一瞬の沈黙。
 そして……。
「美味しいーっ!」
 全員が同じような感想を漏らした。
「こんな美味しいアイスクリーム、初めてですー」
「本当……栞の言うとおりだわ。市販品よりも美味しい……」
「俺も美坂の言うとおりだと思う」
「うぐぅ……美味しいねぇ……」
 あゆが涙目でたい焼きアイスに感動している。秋子さんも珍しいものを手作りするんだなあと俺は思った。
「こんなに味わい深い抹茶アイスは生まれて初めて頂きました」
 ……相変わらずおばさんクサイぞ、天野。
「あぅーっ! 頭にキーンって来たぁ……」
 相変わらず世話のかかる真琴だった。
「これだったら、たくさん食べられるねー、舞」
「……(こくり)」
「そんなに誉めてもらって、嬉しいわ」
 という感じで、秋子さんの手作りアイスは大好評だった。
(そう言えば、昔から秋子さんは美味しい自家製アイスを作っていたな……)
 俺はふと昔のことを思い出した。
 名雪と俺はその手作りアイスクリームが大好きだったのだ。
(……どうして今まで忘れていたんだろうか?)
 その疑問は三〇秒後に解けた。
 ある日、俺はそのアイスクリームを食べ過ぎて腹を壊し、次の日の早朝ラジオ体操に出られなくってハンコを貰えなかったのだ。
(なんか、ヤな事まで思い出しちまったな)
 と、苦笑を浮かべながらバニラアイスに手を伸ばした俺は、名雪がスプーンを片手に凍りついたように固まっていることに気が付いた。
「どうした、名雪?」
 声をかけながら近づいた俺だったが、
「……うっ!?」
 名雪の目の前の皿に盛りつけられているアイスクリームを見て絶句した。
 鮮やかなオレンジ色をしたアイスクリーム……。
「まさか……これは……」
 あのお約束じゃないのか?
「祐一〜」
 名雪が情けない声を上げた。
 俺たちの不自然な様子に気付いたのか、あゆと真琴が寄ってきて……同じように硬直した。秋子さんの手作りで、鮮やかなオレンジ色の食物……それは、一度経験したものには忘れ難い強烈なインパクトを持っている。
 まさか、それがアイスクリームにまで再現されようとは……!
「祐一……」
 助けを求めるような名雪の視線に、
「名雪……短いつきあいだったな」
 俺は手を振ってその場を去ろうとした。
「薄情だよ〜」
「あら、どうしたの名雪?」
 天野と抹茶アイス談義に花を咲かせていたはずの秋子さんがやって来た。
「全然食べてないみないだけど」
 かなりご機嫌のようで、にこにこと微笑みながら訊ねる。
「えーと……」
 狼狽える名雪。絶体絶命である。
「だってこれ、あのジャムと同じで食べられなさそうなんだもん」
 などと言おうものなら、もう二度と御飯を作っては貰えないだろう。
 いや、間違いなく親子の縁を切られるな。
「えーと……」
 助けを求めるように視線をさまよわせる名雪。あゆ、真琴、そして途中から事態に気付いた香里……全員が目を逸らせる中、俺は名雪の目を真っ直ぐに見据え、静かに首を横に振って見せた。
(諦めろ、名雪……)
 代わってやりたいが、俺はここで命を落とすには惜しい人材なのだ。
 俺の無言の説得が功を奏したのか……あるいは諦めきったのか、名雪は意を決したようにゆっくりとスプーンを動かし始めた。
「い、いただきます〜」
 鮮やかなオレンジ色のアイスをスプーンの三分の一ほどすくい、震える手でそれをゆっくりと口に運んでゆく……。
 ごくり……。
 俺は思わず生唾を飲み込む。皆が固唾をのんで見守る中、とうとうスプーンが名雪の口の中に消えた。
 そして。
「…………」
 スプーンをくわえた名雪の表情が微妙に変化した。
「どうした、名雪っ!」
 思わず大声を上げた俺に向かって、名雪は複雑な表情で、
「これ……」
 とオレンジ色のアイスを見下ろし、
「……夏みかん味のアイスだよ〜」
 そう言って頬を緩めた。
「とっても美味しいよ〜」
「今年の新作なのよ」
 秋子さんがそう言って微笑んだ。
 見守っていた全員が深い(安堵の)溜息をもらした。
 オレンジ色だからつい『アレ』だと思いこんでいたが……夏みかんだったのか。
「……祐一」
 アイスを食べ終わった名雪がぽつりと、
「さっき、逃げようとしたよね」
「え……? い、いや、あれはだなぁ、夏みかんアイスを堪能しようとしているお前の邪魔をしたら悪いと思ってあなぁ……」
「ひどいよ……」
 拗ねたような表情で呟く名雪。
「うぐぅ……祐一君、本当にひどいよ〜」
「ほんとほんと」
「相沢君があんなに薄情だったなんて……」
「待てっ! 俺だけか!?」
 お前らだって同罪だろーがっ。
「祐一さん?」
 思わず激昂しかけた俺に、秋子さんがのんびりと声をかけてきた。
「実はもう一つ、この夏の新作アイスがあるんですけど」
 そう言って差し出したのは、トロピカルな絵柄の皿に盛りつけられた、赤い色のアイスだった。
「ぜひ、食べていただけませんか?」
「はあ……いいですけど」
 勢いを殺がれたような形になった俺は、あっさりとそのアイスを受け取った。
 赤。
 琴線に触れるような夕焼けの色を再現したような、赤い色のアイスクリーム。
「ちなみに、何味なんですか?」
「それは食べてからのお楽しみです」
 秋子さんは自信たっぷりにそう言った。
「強いて言えば、夏の風物詩でしょうか」
「夏の……」
 さっきのオレンジ色のアイスは夏みかんだった。
 とすればこれは……
(スイカのアイスクリームだ)
 俺はそう判断した。
 夏の風物詩という言葉から考察しても間違いないだろう。
「それじゃ、いただきます」
 俺は手近にあったスプーンを手に取ると、半球状に盛られたアイスの一部分を削り取って口に運んだ。
 ぱくっ。
「……」
 次の瞬間、俺の頭は軽い混乱状態に陥った。

 祐一の頭がどういう経緯で混乱状態に陥ったのかを架空の視点から観察すると、次のようになる。
 まず、推測された情報が脳の味覚を判断する部分に伝達され、「口の中の物体は甘い」という予測に基づき、甘さを感じる神経の情報伝達に最優先順位が与えられた。
 しかし、甘いという情報は一向に伝達されない。
 おかしいぞ?
 甘くないのかな?
 じゃあ苦い? ……いや、苦くはない。
 じゃあ酸っぱい? ……いいや、酸っぱくない。
 それじゃあ一体これはなんなんだ……?
 徐々に混乱し始めた脳に伝えられた情報。
 ……それは辛さを感じる神経からの情報だった。
 辛いスイカなんてものはないだろう。
 しかし味覚は辛いという情報を伝えてきた。
 この段階で、祐一の脳は完全な混乱状態に陥った。
 スイカは辛い、などという情報はあり得ないと祐一の頭は真っ向から否定に掛かる。
 だが現実として味覚は口内の冷たい物体は辛い……しかも劇的に辛いという情報を伝達し続けている。
 どちらを採用すべきなのか。
 あるいは、第三の選択肢……新たな推測をすべきではないのか。
 結論は出ない。
 結果、オーバーロードした祐一の脳は、取り敢えず一時機能を停止することで、混乱した状況に歯止めをかける折衷案を採択したのだった。

 不意に、俺は意識が遠くなるのを感じた。
(……辛い?)
 目の前のスイカのアイス。
 いや、スイカのアイスだと思っていた赤い物体。
 しかしそれはスイカのアイスなどではない。
 それは辛い。
 口から火を噴きそうになるほど辛い物体。
 その正体が何なのか確認できないままに……
「祐一っ!」
「祐一君っ……!」
 俺の意識は、永遠の闇の中へと引きずり込まれていった……。

 …………。
 ………。
 ……。
 いや、永遠という表現はオーバーか……。


 ☆

 次に目が覚めたとき、俺は自分の部屋のベッドの上に寝かされていた。
「あ、気が付いた」
 傍らの名雪がホッとしたような表情を浮かべ、
「良かったよ〜」
 といつもの口調で言った。
「名雪……俺は一体」
 訊ねながら、意識が閉ざされる寸前の光景を思い出してみる。
 アイスクリーム。
 色とりどりのアイス。
 赤いアイス。
 辛い。
 むちゃくちゃ辛い。
「……名雪。アレは……一体……」
「祐一……」
 名雪が言いにくそうに俯く。
「名雪、頼む。教えてくれ」
 でないと、なんとなく落ち着かないんだけど。
「うん、分かったよ。……実はね」
 名雪がその時の状況を詳しく解説してくれた。
 つまりこうだ。
 唐突に気を失った俺を前に場は大混乱になり、名雪→香里の順で要請を受けた北川が俺を部屋まで運んでくれたのだという。
 そして、秋子さんが語ったあのアイスの正体……。

『お母さん、あのアイスって一体……』
 名雪の問いかけに、秋子さんは穏やかな笑顔のまま、
『あれはね、唐辛子のアイスクリームなのよ』

「……」
 俺は絶句した。
 唐辛子アイスだって?
 なるほど。
 道理で辛かったはずだ。
 甘いと決めてかかった俺の頭が一大パニックを引き起こすはずだ。
 しかし……
「唐辛子アイスのどこが『夏の風物詩』なんだ?」
「うん、それがね……」

『唐辛子って……どうしてそんなアイスクリーム作ったの?』
『ほら、よくテレビでやってるでしょう。夏は辛いものを食べて、いっぱい汗をかいた方が健康に良いって』
『……それだけ?』
『それだけよ』

「……」
 いや、アレはどう考えても健康を害するくらいに辛かったと思うぞ。
 人間の食える限界を越えてるんじゃないか?
 栞が食べたら間違いなくショック死してしまうだろう。
「で、でも、祐一のおかげで、そのあとあのアイスは冷凍室に戻されたし、みんなも(その他のアイスで)満足して帰っていったし」
「なるほど。俺の犠牲は無駄ではなかったというわけだな」
 俺の言葉に、名雪がうんうんと頷く。
 その時、ドアがノックされて、秋子さんが部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか、祐一さん」
「ええ、もう大丈夫です」
 身体を起こしながら答える。
「一体どうしたんですか? 急に倒れるなんて」
 秋子さんは自分の作ったアイスクリームが原因だとは思っていないようだった。
 俺は未だにひりひりする口の中を意識しながら、
「夏バテだと思います」
 適当にそう誤魔化した。
「ところで秋子さん」
「はい?」
 俺は、訊こうか訊くまいか一瞬だけ迷ったが、一応訊いてみることにした。
「あの赤いアイスクリームなんですけど」
「はい」
「食べられるものですよね?」
「ええ、もちろんです」
 にっこりと頷く秋子さん。
「あと、もう一つ訊いていいですか」
「はい」
「あのアイス……材料は、唐辛子だけですか?」
「それは、企業秘密です」
 もう一度にっこりと微笑むと、夕食の支度がありますからと言って、秋子さんは部屋を出ていった。
「気になるって……」
 呟きながら、二度とあのアイスには近づくまいと心に誓う祐一であった。


 オレンジ色のジャムに、赤い色のアイス……。
 かくして水瀬家のブラックメニューに、めでたくデザートが追加されることになったのであった。

                                <終>


800のコメント
 「夏の風物詩」と題した夕凪さんの一連のSSは、当サイトに頂いた「海岸編」とその改訂版(この「海岸編」だけは「ToHeart」SS)、それに かつて「kunta's room」に寄贈された「残暑編」がありますが、その出発点となったのがこの作品です。
 Kanonというゲームでは、メインヒロインたちがそれぞれ特定の食べ物と結びつけられていますが、その中で「夏の風物詩」にふさわしい食べ物といえば、やはりアイスクリームでしょう。というより普通、酷寒地で真冬に屋外で食べるものではありません、アイスクリームは。
 さてそこで、料理上手な秋子さんの手作りアイスクリームをごちそうになった祐一たちでしたが、テーブルに並んだアイスクリームの中に1つ、鮮やかなオレンジ色のアイスクリームが……!
 Kanonに基づくギャグ系の二次創作をいくらかでもご存じの方なら、ここで即座にあの「お約束」なオチを予想されると思います。
 しかしそこで「お約束」のオチに走らず、その場は無事に収めてから、祐一が(読者も)安心したところで別のオチに持ち込んだ夕凪さんの発想は、KanonSSの処女作としてはなかなか優れたものではないかと思います。

 余談ですが、真っ赤になるほど唐辛子を入れたアイスクリームというのは実在し、このSSを贈られた桂芳恵さんは、実物をご存じだったそうです。

(2004.11.22)

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