時は四月の終わり…桜の花も散り始め、木々の緑が増してきた頃のお話。 佐祐理さんと舞は卒業して、佐祐理さんは大学に、舞は…何をやってるんだろ、謎だ。 まぁ、だからこそ舞らしくもあるのだが。 今日は麗らかな土曜の午後。GWが間もなく始まろうとしている。 学校も終わり、百花屋で昼食兼オヤツを食べつつ、3人で集まっての談笑中だ。 以前なら例の屋上そばで集まれたのだが、卒業されては仕方が無い。 「新3年生の気分はどうですか?祐一さん」 「うーん、なんていうか実感無いんだよな。進路とか考えた事も無かったし、  そもそも一年前はこっちに来る事自体考えられなかったわけだしね」 そんな世間話を他所に、舞はひたすらイチゴサンデーをパクついている。 舞にイチゴサンデー…何とも形容しがたい組み合わせだが、嫌いじゃないらしい。 というか、舞に嫌いな食べ物なんてあるのだろうか…? 何となくイジワルしてみたくなり、舞の手元からイチゴサンデーを奪う。 じっとこちらを見つめてくる(というか睨んでくる)舞。それを無視してフォークでヒョイと イチゴを摘み、佐祐理さんの元へと運ぶ。 「はい、佐祐理さん。あ〜ん」 パクッ、モグモグ… 「はぇー、ありがとうございます、祐一さん」 「ぶっ!?」「ふぇっ!?」 俺と佐祐理さんの元にすかさず飛んでくるチョップ。 「イチゴ…」 ジトーっと恨みがましい目で俺と佐祐理さんを交互に見つめる。 最近気づいたのだが、これは半泣きの表情らしい。 「ま、舞、ほら、佐祐理のイチゴのサバラン一口あげるから、そんな顔しないの」 「……」 佐祐理さんから差し出されるフォークに黙って口を開ける舞。 そこに反応して、体を乗り出し、かぶりつく俺。 これが漫画だったなら、きっと俺の目はギュピーンという擬態語と共に光っていただろう。 「ん…んまい!」 直後、半泣きの表情でチョップの嵐を見舞ってくる舞。 そ、そんなに悔しかったのか…。 「あ…あはははーっ」 さすがの佐祐理さんも笑いが引きつっている。 ちと、やりすぎたかな。話題を変えよう。 「このサバランってしっとりしてるけど、なんかパンみたいだよな」 改めてサバランを舞に食べさせる佐祐理さんに聞いてみた。 「そうですね、サバランというのはイースト菌も使ってますし、パンに似た作り方をしてますから。  それを焼き上げた後でシロップに浸して作り上げるんですよ」 「へぇ…手が込んでるんだな。しかし、パンといえば、さすがに最近は学食のパンも飽きてきたな」 元々俺は、手軽に食べられる機動力があって経済的にも優しいパンは大好物なのだが、 学食のパンは安い事だけが売りで、取り立てて美味いというほどでもなく、さすがに食傷気味なのだ。 「それでしたら、今度お弁当を作って、祐一さんの教室まで運びましょうかーっ」 「いや、ごめん。俺が悪かった」 ただでさえ目立つ佐祐理さんが、私服姿でお弁当を教室にまで届けて来た日には、 俺は即座に男子生徒から吊るし上げられ、白い目と罵詈雑言の嵐を頂戴するだろう。 「はぇー、謝られてしまいました。持って行きたかったのですが…」 「ほんと大丈夫。気持ちだけもらっておくよ」 何か前にも似たような事があった気がする…。 「その代わりと言っちゃ何だけど、たまには美味いパンが食べてみたいものだな」 「パンですか…佐祐理もパンは焼いた事がないのですみません」 「うん、それなんだけどね。この前、たまたまパソコンで見てた掲示板に、面白い記事があったんだ」 せっかくなので、こないだ暇つぶしで見てた掲示板での話をしてみる。 「○○県××市にある古河パンってパン屋の事なんだけど・・・、そこに奇妙なパンがあるらしいんだ。  ある人は食べた後、頭の中で虹が走ったらしい。そして、またある人は、食べた後、煙に包まれたような  感覚があったらしいんだ」 佐祐理さんは、この話に興味を持ったらしい。ゴクッっとノドを鳴らして俺の顔を見入る。 舞は余り興味が無いのか、今度は俺のホットケーキにまで手を出し始めている。 「虹が走ったり、煙に包まれたり、ですか…はぇー、それって味はどうなのでしょう」 「それがね…あまりの衝撃に味を覚えていないらしいんだ。とにかく、そのパンには触れてはいけない  何らかのタブーがあるらしくてね」 俺は、この話をしつつ、ふと秋子さんのジャムを思い出した。あんな感じなのだろうか?不安が襲う。 佐祐理さんは、何やらブツブツと言いながら宙を見上げている。何となく嫌な予感がするのだが…。 「祐一さん!」 「は、はぇっ!」 急に名前を呼ばれ、さっきの不安からビクっとして変な応答をしてしまう。 「明日の日曜日、その古河パンに行ってみましょう。××市なら、日帰りで十分往復出来る距離ですし」 うわ…佐祐理さんの目が、さっきの俺よろしく、ギュピーンな状態になっている。 こんな佐祐理さん初めて見たよ…。不安が益々増長されてくる。 「あ、あぁ、俺はどうせ暇だしいいけど、舞はどうするんだ?」 出来れば道連れは1人でも多いに越した事は無かった。 「…わたしは、この街から出たくはないから。お土産を買ってくれればいい」 いつもと変らぬ様子の舞。俺が心配性なだけなのか、それとも舞の危機回避能力が優れているのか…? 「じゃあ祐一さん、2人で行きましょう。舞にはたくさんお土産を買ってくるね」 …何とも珍しいお言葉。佐祐理さんからこんな積極的になるなんて、明日は雨でも降るのだろうか。 たとえ明日死ぬ事になろうとも、このお誘いを蹴るわけにはいかない! 覚悟を決め、応える。 「よし、わかった!じゃあ明日は2人で古河パンまでデートだ」 「佐祐理なんかとデートで楽しいとは思えませんが、よろしくお願いしますね。  じゃあ、明日は早いでしょうから、今日はこの辺で解散しましょう」 「ああ。俺も早く帰って遺書を書かないとだしな」 「はぇー、なんで遺書なんて書くんですか?」 いや、何となく生命の危機を覚えてるんだよ、とはさすがに言えない。 「……とどめはわたしが」 「刺さなくてもいいっ!」 突っ込みを入れつつ、席を立つ。 「それではーっ」 「おうっ!」 「……」 いつもの掛け声で、それぞれの帰路へ就く。 家への帰り道、明日は無事にこの道を歩く事が出来るのだろうか?と思いながら…。 …… 翌日の早朝、眠気眼を擦りつつ、待ち合わせの場所に向かう。 秋子さんに事情を話し、小遣いの前借りをすると、隣で聞いていた名雪が 「デートっ、デートっ」 と囃し立てながらもお土産の催促を忘れなかったのはお約束だ。 駅前に着くと、佐祐理さんは既に着いていた。 始めて見る佐祐理さんの私服姿…近頃の女性にありがちな活発かつ大人らしい パンツルックではなく、いかにも清楚な感じのワンピースで、お嬢様風だ。 …くう〜っ!迂闊にも涙が込み上げてきたぜ!!もう今日が命日でも構わないっ!!! 「お待たせ、佐祐理さん」 「おはようございます、祐一さん。そんなに待ってないので大丈夫ですよーっ」 あははーっといつもの笑みをこぼしつつ、全く眠気を感じさせない。 ここで気の利いたヤツなら、そのワンピース似合ってるね、とかお世辞の1つも 言えたりするのだろうが、今の俺にはそこまでの余裕も無かった。 柄にも無く緊張してるんだよっ、悪いか! …… 新幹線と特急を乗り継ぐ事5時間ほど。最初は話も弾んでいたが、不覚にも俺は寝てしまっていた。 しかも、佐祐理さんとの新婚生活なんて、とても甘い夢を見ながら…。 「…いちさん、祐一さん、起きてください」 「ん、なんだい?佐祐理。もう朝か?じゃあ、いつものお早うのキスでも…」 「はぇーっ、祐一さん、佐祐理なんかとキスしたいんですか?」 「へ?もう佐祐理は俺の前では敬語をやめたはずじゃ……って、ここどこ!?」 「祐一さん、お寝ぼけさんですねーっ。ここは電車の中で、古河パンへと向かう途中ですよ」 「うわっ、佐祐理さんゴメン。俺すごい変な事口走って無かったか?」 「あははーっ、気にしてませんよ。今日は朝も早かったですからね」 こういったフォローも相変わらずである。でも、少しは気にして欲しい気もする…。 「いつかは…」 ボソッと聞こえないくらいの声で呟く佐祐理さん。「へっ?」と素っ頓狂な声で反応すると、 真っ赤な顔で俯いてしまった。いつかは…期待していいのかな…。 「ここで降りるらしいですよ。その後の道は、電話帳から住所を調べてみました」 駐在所で住所を教え、道を聞くと、多少時間はかかるものの歩いて行ける距離らしい。 お巡りさんに地図を書いてもらい、お礼を残して後にする。 30分ほど歩き、木々に囲まれた長い坂道を通り、高校らしき学校の脇を抜ける。 「観光気分でこういうのもいいな」 「そうですね、舞も来ればよかったのに」 なんて事を話しながら、公園に指しかかる。地図を見るとこの辺のはずだが…。 「あ、あれじゃないですか?看板が見えます」 「あれか…想像してたよりも、こじんまりとした店だな」 店の外観がはっきりと見える。いかにも個人商店のような小さい店だ。 近所の常連さんで持ってるような感じだな。 「ここに、その噂のパンが眠ってるのか…。」 そう思うと、さっきまでのノンビリとした空気で解けていた緊張が再び体を走る。 恐る恐る近づいていくと、小学生くらいの子が店の前で何やら叫びながらウロウロしていた。 「いらっしゃいませー!いかがですかー。今ならいい子いますよーっ!」 「いい子いますよって何の店だよっ!」 突っ込まずにはいられなかった。末恐ろしい子に成長するな…。 「何の店ってパン屋ですが?」 如何にも子供らしい笑顔で、それでも毅然と応対してくる。 「このパン屋は、こんな小さな子に呼び込みのバイトをやらせているのか…」 「はぇー、今時感心な子もいるものですね」 いや、佐祐理さん、この呼び込みの仕方を見て、そう言う事言えるか…。 「あ、勘違いなさらないでくださいね。わたしはここのバイトではありませんよ。  しばらく居候させて頂いているお礼に今日はお店を手伝っているだけです」 苦笑いしながら、その子は俺たちのやりとりを見ていた。 なんか見れば見るほど、年甲斐も無く(しかも見た目と反して)大人びた印象がある。 まぁ、ここで話し込むのも何だし、早速聞いてみるか。 「そうそう、ここにさ、すごいパンがあるって聞いたんだけど、本当かな?」 「すごいパン、ですか…」 う〜ん、と考え込む少女。心当たりは無いようだ。 「わたしも、昨日からお世話になっているばかりですので、申し訳ありませんが  わかりませんね。良かったら中をご覧になってみればどうですか?」 「そうさせてもらうよ。せっかく遠くから来たんだしな」 佐祐理さんも頷き、店内へと向かう。 「はい、二名様御案内です〜っ!」 やっぱり、あの少女は何か勘違いをしている…。 店内に入ると、やはり小さな個人経営そのままのパン屋だった。 ところ狭しとパンが並び、店内はパンの柔らかい香りで包まれている。 佐祐理さんもパンの香りに御満悦のようだ。 「いらっしゃいませ」 ひょこっと線の細い女の子が顔を出す。年のころは俺よりも少し年下だろうか? セミロングの髪型からのチョロっと2本のクセ毛(通称アホ毛!?)が、印象に残る。 「いい子いますよーっ」との先ほどの少女の言葉を思い出した。確かに可愛い。 …すると、俺の視線に気付いたのか、 「いらっしゃいませ…」 と、今度はドスを利かせた感じの声で男が出てくる。 お世辞にも愛想の良いタイプとは言えない。というか、明らかに俺を警戒しているだろう。 やはり、俺と同年代くらいだ。さっき通った高校に通っているのだろう。 佐祐理さんは、それまでパンをずっと眺めていたが、もう待ちきれないとばかりに話し出す。 「あのーっ、ここにすごいパンがあると伺って買いに来たのですが」 ピクッっと男の方の動きが固まる。女の子の方には動じた様子は無い。 「あ…あのパンを買いに来たのか…」 男は動揺を隠せないのか、声が震えている。 「はいっ。噂を聞きつけて、■■市からやってまいりました」 「え…そんな遠くからわざわざ来て頂いたのですかっ、ありがとうございますっ!」 深々と頭を垂れる女の子。 「でも、そのすごいパンって何のことですか?」 女の子からの意外な発言。 「どう考えても早苗さんのパンとしか思えないだろ」 「あ、お母さんのパンですか。わたしはいつも食べようとするとお父さんに止められていたのですが、  朋也くんは食べた事があるんですかっ」 「ん?…あぁ、そんな事もあったような、なかったような…」 「わたし興味ありますっ。お母さんのパン、食べてみたいですっ。朋也くん、いいですかっ?」 俺たち2人を完全に無視して話し出す二人。どうやら、この2人は恋人同士らしい。 そして、女の子の方は、このパン屋の娘さんのようだ。 「悪い事は言わん、やめとけ。俺は、これ以上渚にアホな子になって欲しくない」 たかがパン1つにヒドい言い様だ。 ふっと隣を見ると、佐祐理さんも普段のあははーっ笑いが引きつっている。 どうにも口出し出来る状況ではないらしい…。 「なんか、そんな事言われると余計に食べたくなってしまいました。今ならお父さんもいないですし、  お母さんは奥で夕飯を作っていますし、今なら食べてもバレません。ちゃんとお金を出して  買いますので、朋也くんお願いしますっ」 渚…と呼ばれた女の子は顔を真っ赤にして一生懸命説得している。 しかし、朋也と呼ばれた男の方は黙って首を横に振るばかりだった。 なんか、渚が可愛そうだな。ここは止めた方がいいのだろうか…? 佐祐理さんも同じように考えていたのだろう、共に頷きあい、話し出そうとすると…、 「あの〜、お二人さん。お客さんほったらかして何やってるんですか…?」 外で呼び込みをしていた少女が、呆れ顔で割って入った。 「あ、芽衣ちゃん…ごめんなさい」 「いや、謝るのはわたしではなくてお客さんの方にでしょう…」 「そうでした、お客さん、すみませんでしたっ」 またも深々とお辞儀をし、渚が謝る。 「あ、あははーっ。お2人の仲の良いところが見れて楽しかったですよ」 いや、佐祐理さん、それはフォローになっているのか…? …… 気がつけば、居間に案内され、パンをお茶菓子に(例のパンではない)、 コーヒーを出されている俺と佐祐理さんがいた。 2人とも、引きつったままの表情でずずず…っとコーヒーを頂いている。 居間には古河家の人は誰もいない。何でも、店主である父親は店をほったらかして 野球に行き、店員でもある母親は、夕飯の支度途中で買い物に出かけているらしい。 とても無用心な家である。まぁ、誰でも了承の一言で家に上げてしまう秋子さんにも 同様の事は言えるが…。 …何でこんな事になったかと言うと、だ。 ひたすら謝り続ける渚が、せっかく遠いところからお越し頂いたのに、このままでは申し訳ない、と とにかく折れずに勧めてくるから、断りきれずに現在に至るってわけだ。 「ん、なんか悪かったな、お前達」 岡崎と芽衣って子は、渚から店番は1人で大丈夫だから、とクビ宣告されたために、 今は一緒になってお茶をしている。それぞれ自己紹介を終え、口も軽くなってくる。 「いや、構わんさ。渚って言ったっけ?あんたの恋人。いい子だな」 「俺にはもったいないくらいだよ。つっても、まだ付き合いだして間もないんだがな」 「はぇー、結構息が合ってるように見えましたけどねーっ」 「わたしも昨日渚さんから、その話を聞いてビックリしました」 「渚は一体何を話したんだ…」 朋也は心底脱力しているようだ。まぁ、一本気で素直な感じのする子だから、 そういう意味での気苦労は絶えないんだろうな。 「朋也くん、呼びましたかっ」 「うわっ!」 突然、渚が割り込んでくる。 「お母さんが少し代わってくれて、わたしも一息入れさせて頂きたかったのですが、  わたしの話でもしてたのでしょうか…」 「いや、その、なんだ…渚、愛してる」 っていきなり何を言い出すんだ、こいつは!? 「あ、ありがとうございます」 赤面して俯いてしまう渚。見事にごまかされてしまっている…。 「あ、あははーっ、本当に仲が良くて羨ましいですね」 「あ、いえ、その、そんなことは無くて…いや、それは仲が悪いと言う事では無くてですねっ」 しどろもどろになりながら、その場を取り繕おうとする渚。 「そっちのお2人も恋人同士なんですよね、わざわざお2人でこんな遠い所まで来るのですから」 「「えっ!?」」 いきなりの芽衣乱入と話題運搬に、声を合わせて驚く。 これは利用しない手はないな…。 「いえーっ、そんなことh…」 「うん、そうなんだ。今日も2人で日帰り旅行がてらって事でね」 否定しようとする佐祐理さんの言葉を、素早く上掛けして答え、佐祐理さんに極上のスマイルを返してみる。 「あ…あははーっ」 相変わらず引きつった笑みを浮かべ(って、今日は引きつりっぱなしだな)、佐祐理さんは途方に暮れる。 …してやったりっ!…と思ったら、ニコッと笑って、足の辺りをギューっとつねられてしまった。 「なんか素敵ですっ。恋人同士のアイコンタクトですっ」 「いいですねー、こういう雰囲気も。わたしもこんな恋愛したいな」 渚と芽衣から感嘆の言葉が漏れる。 いや、微妙に違うんだけど…まぁいいか。 「なにやら楽しそうですねっ、わたしも混ぜてください」 手を合わせ、ニコニコした表情の若い女性が居間に入ってきた。 ってか、可愛い人だな…。渚のアホ毛が2本に対し、この人は3本ある。 それ以外にも、渚と雰囲気がとても良く似ている。おそらく姉だろう。 「あ、お母さんです」 ズベッ!! 思わずテーブルに突っ伏してしまう。 「あらあら、そちらの方はどうなさったのでしょう?」 「いや、その反応は正しいと思うぞ、相沢」 苦笑いを浮かべて岡崎は頷く。 こんな若い母親…秋子さんくらいしか居ないと思ってたよ…。 「相沢さんと言うのですか。わたしは渚の母親で早苗と言います。  今度からグランドクロス相沢さんとお呼びしてもいいですか?」 「……」 訂正。秋子さんよりぶっ飛んだお人のようだ。 「早苗さん、そのネタ誰にでもやってるのか…」 そういえば、早苗って名前に聞き覚えがあったのだが、なんだったか…? あ!そうだ、パンだ!この変な空気に惑わされて忘れていたが、ここにはパンを求めて来たんだった。 「そうだよ。俺たち早苗さんのパンを買いにきたんだったよな」 と発言した、その時である。 ダンダンダンダンダンッ!! ガラァッ!! 「なぁんだとおおおおおおおっ!」 ものすごい勢いで居間に駆けつけ、戸を叩き付けるように開け放つ。 咥えタバコでギラギラした目つき。どこかのチンピラを思わせるような風貌である。 「あ、お父さんですっ」 …もはや、何も言うまい…。 「早苗のパンが欲しいってのは、そいつか。悪い事は言わんがやめとけ。あれは一種の麻薬だ」 朋也と同じ、いやそれ以上の事を言ってのける。そんなにすごいのか…。 「オッサン、早苗さんそこにいるんだけど」 「げ…」 皆の視線が早苗さんに集中する。って、うわ!目に涙がたまってるよ! 「わたしのパンは…わたしのパンは…大麻や阿片と同じだったんですねーっ!!」 泣きながら出て行く早苗さん…。唖然として見送る3人(俺、佐祐理さん、芽衣)と 妙に落ち着いて見守る2人(渚と岡崎)。 「ちっ、そう言う事は早く言えよっ」 吐き捨てるように呟くと、 「俺はすでに中毒だから大丈夫だぞおおおおおっ!!」 と叫んで追いかけていく渚父。 いや、それもフォローになってないから。 「いつもの事ですから、お2人は気になさらないでくださいねっ」 やたら落ち着いて渚が言う。これがいつもの事なのか…。 …… 「それで、だ。その2人は一体誰だ」 息を切らせて戻ってきた渚父が唐突に言い放つ。 「この方々は、相沢祐一さんと倉田佐祐理さんと言いまして、わざわざ  ■■市からパンを買いに来て下さったんですっ」 「何…?俺のパンもそこまで有名になったのか!まぁ、そうだろうな」 自信たっぷりの表情でうんうんと頷く。 「どっちかと言うと、有名なのは早苗さんのパンのようだがな」 「っち、そうなんか。俺のパンは早苗のパンより劣るのか…」 本気で悔しそうだ。 「まあいい。どっちにしろ古河パンである事には変らん」 自分に言い聞かせているようである。 「せっかくだから…何だっけ、コスモ祐一とレインボー佐祐理か。お前らも  夕飯食っていけ。早苗はパンはあれだが、料理は美味いぞ」 この親たちは名前を間違わないと気がすまないのか。 …… 本来なら、そろそろ帰らないといけない時間なのだが、渚父の強引な押しにより、 俺と佐祐理さんは引き止められてしまった。 出てきた食事はクリームシチュー。本格的なのか、とても良い香りがする。 とても麻薬の様なパンを焼く人の料理とは思えなかった。 総勢7人で、所狭しとテーブルを囲っての夕食。 千客万来が楽しいのか、渚父と早苗さんは終始ニコニコとしていた。 「それで、お前ら2人は恋人同士なのか」 「ぶっ!」 思わず口の中のニンジンを噴出しそうになる。 「あ…あははーっ」 またこの話題に戻ったのか。 さっきの仕返し、とばかりに話題を擦り付けようとしてみる。 「んー、まぁ、そこのお2人程度にh…」 「あ〜、ほら、なんだっけ!渚、コショウ持ってきてくれないか?」 ビクっとした岡崎が話を被せ、目配せしてくる。 …あ、もしかして両親はまだ知らないのか…。悪い事しちまったな。 こちらも目でスマン、と合図を送る。…が、そういった事が通じないお人がこちらにもいた。 「あれ?岡崎さん、どうしたんですかーっ?2人は恋b…」 や、やばいっ!佐祐理さんを黙らせないと! 「佐祐理さん」 「はぇー?だって2人は…」 俺は言うのか、あれを…言っちまうのか…。 「佐祐理さん、愛してる」 「ぶっ」 佐祐理さんは激しく動揺している…! 「あ…ありがとうございます、祐一さん」 真っ赤になって俯く佐祐理さん。朋也、ここにもアホな子がいたぞ…。 …… 楽しかった団欒の時も終わり、分かれの時が来る。 皆が店の前まで、送り出してくれる。 「遠いから大変だろうけど、また来い。その時は俺の分身魔球を打ってみろ!」 「祐一さん、佐祐理さん、また遊びに来てくださいね。渚のお友達になってあげてください」 「お2人ともお幸せになってください。今日はありがとうございました」 渚父と早苗さん、芽衣にお別れの言葉をもらい、店を後にする。 岡崎と渚は駅まで送ってくれるらしい。 「なんか、お前らは他人の気がしねぇよ」 駅へと向か帰り道、ニカっと笑って朋也が言う。 笑った岡崎を見たのは初めてだが、こんな笑顔をするやつは そうはいないだろう。渚が惚れたのもわかる話だ。 「俺もそんな気がしてたよ。お互い苦労するな、岡崎」 「ああ、そうだな…」 しみじみと言葉を返してくる。 「朋也くん、やっぱりわたしが彼女じゃ不満なのでしょうか…」 ションボリとして渚が呟く。 「そうじゃねぇよ。好きだからこそ苦労する事もあるって事だ」 ポンっと渚の頭に手を置き、朋也は優しく語り掛ける。 「2人とも、素敵な関係ですね」 佐祐理さんは、目を潤ませながら2人のやりとりを見ていた。 「ああ」 本当にそう思う。まだ付き合い始めて間もないって話だったけど、 この2人なら、どんな苦難も乗り越えていくのだろうな。 お互いの学校の話や、俺や朋也、渚は3年って事もあって、進路の話とか、 そんなたわいもない話をしながら、のんびりと歩いてゆく。 明日からは、また学校が始まる。楽しかった今日一日を置き去りにして。 寂しい気持ちを共有してか、皆の足取りはとてもゆっくりとしたものだった。 それでも歩く限りは駅に着く。そして彼らとの別れの時が訪れる。 「じゃあな、相沢、倉田さん。2人とも仲良くな」 「相沢ざん、倉田ざん、良がっだら、まだあぞびにぎでぐだざい…」 涙ぐんだ渚を、岡崎は優しく微笑んで見守っている。 「おう。手紙…苦手だけど書いて見るから、良かったらこっちにも遊びに来てくれ。  でも、冬はかなり寒いからオススメしないぞ」 「岡崎さんも、渚さんも、どうか幸せになってくださいねーっ」 佐祐理さんも、うっすらと涙ぐみ、それでも何とか笑顔を保つ。 岡崎の真似をして、ポンっと頭に手を乗せてみる。 佐祐理さんは、少し戸惑ったが、それでも安心した笑顔を見せる。 名残惜しさを振り払い、最後にもう一度手を振って2人と別れる。 こんな優しい一日を、俺は忘れる事はないだろう…。 …… 帰りの新幹線の中、佐祐理さんは話してくれた。 「渚さんのお父様、お母様、渚さん、朋也さん、芽衣ちゃん…皆とってもいい人ばかりでした。  あんな素敵な家族を、わたしは初めて知りました。わたしはお父様から正しい教育を受け、  まっすぐに育つ事が出来ましたが、一弥に対しての態度から、お父様、お母様からの愛を  否定してしまう事もありました。厳しい事は愛情ではない、と。でも、家族の形は人それぞれであり、  お父様、お母様も、形はどうあれ一弥を愛していてくれたんだなって思いました。  でも、もし両親があの方達のような方々だったなら、一弥はもっと幸せな人生を送れたのでしょうね」 「うん、そうだな。あんな親父やお袋が俺にも欲しかったな。でもな、佐祐理さん。今の佐祐理さんには  舞がいて…俺もいるだろう?俺たちだって、あんな家族になれるよ、きっと…」 「…祐一さん、少し…肩を…お借りしても…よろしいですか?」 …何も言わず、佐祐理さんの頭をそっと抱き寄せる。 佐祐理さんは、肩に顔を押しつけ、声を殺して泣いていた…。 幸せな家族愛に当てられて、一弥の事を強く思い出してしまったんだろうな。 それだけ古河家は素晴らしい家族だった。 …… 故郷となった駅に降り立ち、佐祐理さんを家まで送る。 今日一日を振り返り、お互いに笑いあいながら。 「それでは、祐一さん。今日はありがとうございました。とても楽しい一日でしたーっ」 「ああ。もう遅いから早く寝ろよ。…って、今気付いたんだが…  俺たちパンを食べてもいなければ、お土産も何も買って無いよ!」 「はぇー、…あははーっ。そうでした。すっかり忘れてましたねっ」 「まぁ、舞にはお土産話を聞かせてあげることでごまかすか」 「そうですね。羨ましがるだろうなー、舞」 佐祐理さんは、今日一番の笑顔だった。やはり舞の事が一番なんだな。 舞に嫉妬の1つもしてやりたいが、ここは我慢してやろう。 「それじゃ、佐祐理さん、またなっ!」 「はい、それではーっ。…あっ、そうだ」 「ん?」 「あの時の祐一さんの言葉…い、いいえ、何でもないです。おやすみなさいっ」 暗い夜道でもわかるほどの上気した顔を隠しながら、そそくさと佐祐理さんは家へと入っていった。 あの時の言葉…?あっ!もしかして…あれか、あれなんだな…。 これからの俺と佐祐理さんとの関係も、少しずつ変化が訪れるのかもしれない。 …… ようやく家に着く頃には、日付が変る少し前だった。 さて、お土産忘れちまったけど、あとで百花屋のイチゴサンデーって事でごまかすか。 珍しく起きていた名雪が起きていて(秋子さんに言わせると心配してるらしい)、 俺の姿をじ〜っと見て回ると…一言だけ言った。 「うそつき」 <END>